ふたつの世界

十二月七日(金)晴
 フレーバー・ホイールというものがある。アロマ・ホイールとも言う。いわゆる「香りの分類」を図表化したもので、コーヒー、ワイン、チーズ、ウィスキーといった品目別に、それぞれの香りを評価・分析する際に使われる、「フローラル」とか「ミネラル」といった用語が、多くの場合その香調を示す色彩とともに円形の図に割り振られている。このフレーバー・ホイールなるものを、調香師はまったく理解できない。フルーティとかフローラル、ウッズ、アニマルといった、フレグランスでも香調分類に用いられることばが並んでいるので、用語じたいが分からないわけではない。理解できないのは、分類が円環をなしていることである。たとえば、シトラスのグレープフルーツからはじまった分類が、右となりのレモンやライムに近いのは分かる。しかし、ぐるっと回って「包帯」がグレープフルーツの左隣に来るという感覚は、まるで意味が解らない。そもそも、香りやアロマなるものの分類が円環をなすという発想が理解を超えているのである。
 なぜ円にするのだろう。まるで、香りは輪廻転生するもののごとくである。周知のとおり、輪廻は古代インド哲学から仏教に入った考え方で、すべての存在は生と死を永遠に繰り返すとするものである。サンスクリット語でサムサーラ、あるいはサンサーラと呼ばれる。仏教ではこの輪廻の苦しみから解脱することを説くわけである。古代ギリシアにも輪廻に似た思想はあり、それらを淵源としてニーチェ永遠回帰の思想へとつながる。フレーバーにおける香りとは永遠回帰を体現するものなのであろうか?
 調香師(パフューマー)の世界に、円環型の「フレグランス・ホイール」はないが、香調を分類する表やチャートのようなものはある。フレグランスの世界では、専門用語や基本的な考え方は香水をめぐる伝統に由来するため、香りをトップ・ノートからミドル・ノートを経て、ラスト・ノートにつづく、直線的な時間観でとらえるのがふつうである。香調の分類も、一番左にシトラス(柑橘)のように、軽いもの、すなわち揮発性が高くてトップ・ノートに寄与するものが置かれる。右に行くに従ってより持続性のある、ハーバルやグリーン、スパイス、フルーティ、フローラルとつづき、その後にウッディやムスク、バルザミック、アンバー、アニマリックといった残香性のよいノートが来る。その後に再びシトラスが来て円として回帰することはないのである。
 並ぶということは、そのふたつの香調にどこかしら似たところがあるか近い要素があるという了解が前提となるが、フルーティとフローラルは、たとえばアンバーとくらべればはるかに似た要素が強いから並んでいても不思議はないが、円環によって、もしアニマリックのとなりにシトラスが来るとすれば、それはかなり意表を突いた配置である。
 フレグランスには、はじまりと終わりがある。と言うことは、終末論的な時間意識に支配されているということになるのではないか。大袈裟かも知れないが、調香師は香りの終末に戦(おのの)きながら、少しでも香りが消えてなくなる最後の時を延ばそうともがいているようにも思えて来る。神がこの世を創造し、時間が流れてこの世が終わり、「最後の審判」の時がやって来る。だからこそ、われわれは悔い改めねばならないのである。
 これらのことは、最近ある人との会話の中で思いついたことである。フレーバー・ホイールの円環による分類の理不尽さを説明する中で、自分の関わって来た「フレグランス」に内在する時間観念にあらためて気づかされたのである。輪廻と終末論に相当する、このフレーバーとフレグランスというふたつの世界の考え方の違いは興味深い。香りや香料という、同じ対象や素材をあつかっているのに、背後にある世界観のようなものがまるで異なるものであることを明らかにするからである。
 もしかすると、同じ「香料」ということばで語られ、実際に多くの原料を共有するフレーバーとフレグランスだが、原料は炭素から出来た同じ「繊維」でありながら、製紙と化学繊維では業界がまったく異なるように、ふたつの世界はわれわれが思っている以上に、異質な世界観を持つ異業種なのかも知れない。そう考えれば、フレーバーの人たちと微妙に感覚が合わないのも不思議ではないようにも思えて来る。
 一方で、よくよく考えてみると、フレーバーにはそもそもフレグランス的な意味における「時間」は存在しないのである。食品や飲料に賦香されるフレーバーは食べるとき、飲むときだけ香ればいいのであって、食べた後にいつまでたってもその香りが残ることは求められていないというより、望ましくないものなのだ。それは、われわれが口にする、フレーバーがつけられていないワインやウィスキーの発する、いわゆる「アロマ」でも同じである。
要するに、アロマやフレーバーにラスト・ノートは不要なのであり、香りの持続が問題とされることはない。言い換えれば、刹那的な香りを追求するのがフレーバーなのである。このことに気づくと、フレーバー・ホイールが、香りの時間的要素を排して、飲食物の風味を一瞥のもとに総観するためのツールであることを、だんだん理解できるようになって来る。
 たとえば、あるワインの香りが想起させるさまざまな要素を、アロマ・ホイールの用語から選ぶとする。ラズベリー調のフルーティが強ければ円周上から「ラズベリー」の領域を大きく上に抜きだし、干し草の匂いがほんの少しするようなら「干し草」のパートを少しだけ持ち上げる。そして、そのワインにない香りの要素を示す用語を隠せば、そのワインの香りの特徴は一望のもとにとてもわかりやすいものになるだろう。つまり、アロマやフレーバーの瞬間的なスナップ・ショットのようなものが出来上がるわけで、香りを視覚化してその特徴を把握するのにきわめて便利な手法である。
 同時に、トップだけと言い換えてもいいフレーバーに、ムスクやウッディなど、フレグランスではラスト・ノート、あるいはベース・ノートに分類される香り用語がふくまれていることにも注目したい。逆に言えば、ラスト・ノートもトップから立派に香っていることになるからである。
 これはジャン=クロード・エレナという有名なパフューマーも言っていることで、わたしもその通りだと思うのだが、例の終末論的な香水の時間論の影響を受け、ラスト・ノートの単品は最後にしか登場しないように思うのは間違いで、実際にはトップから香りの要素として匂っているはずのものなのだ。わたしも長らく、直線的時間観に囚われていたために、ムスクはラスト・ノートという先入観でトップに嗅ぎ分ける意識を持たずに来たのだが、フレーバー・ホイールによって、フレグランスにも刹那的な香りの評価があり得ることに気づかされた。
 刹那的快楽をもたらすフレーバーが、「食」に通ずるものである点で、大地や自然の永遠回帰、あるいは輪廻にも似た植物再生の円環を想起させることも興味深い。対照的に、一方のフレグランス、特に香水は、原罪を背負った終末論的な悲観主義のようにも見えて来るからである。
 フレーバーは「食」に関わり、フレグランスに「性」とのつながりが強いとはよく言われることである。食欲も性欲もともに人間に快楽をもたらすものではあるが、暴飲暴食や好色淫蕩を戒める道徳的規範において、性的なことがらの方により強い禁忌がはたらくのは多くの宗教・文化に共通するものである。そして、香水は何の役にも立たない贅沢で軽佻浮薄なものとして非難されやすいだけでなく、フェロモンの代替物もしくは異性を惹きつけ、性的欲望をかき立てるものとして弾劾されることが多いのである。
 しかし、フレーバーが食欲を満たすことはなく、フレグランスもそれじたいが性的快楽をもたらしはしないように、それらは欲望の対象そのものではない。言い換えれば、リアルな《欲望―充足》の営みの中から、香りや匂いははみだしていることになる。フレーバーとフレグランスが違う領域である以上に、両者とは異なる「リアル」な世界が存在するのである。わたしの関心は、そのふたつの世界の関係を理解することにあったようである。【了】