廃墟の美

 あるフランス人女性と喋っていて合点がいったことがある。自分もつねづね感じていた、茶道のインチキくささを見事に言い当てていたからである。彼女は日本に来て11年、鎌倉市の骨董店で働いている。日本語は全く問題なく話し、着物が好きだという。家内が知り合って家に呼んで食事をしながらいろいろ話す機会があったのだが、その中で彼女が廃墟を好むことを知った。私も昔から廃墟は好きで、ピラネージ描くところのローマの廃墟や、特にハドリアヌス帝の別荘などは自分のヨーロッパに対する憧れの原点と言ってもいいくらいのものだ。ところが、話すうちどうも話が食い違う。彼女が好きなのは日本の廃墟であり、私の用語からすれば、それは廃墟というより廃屋に近いものであることがわかって来た。フランスよりも日本の方が、生きやすいと言う彼女は、日本よりもフランスの方がはるかに楽に生きられる私とちょうど正反対の存在でもあるのだが、日本文化のさまざまな様相を好みながら、茶道には興味がないという。話すうちにわかってきたのは、彼女の言う廃墟は、maquillageされたものではないということだ。つまり、彼女の好みがわざとらしく「廃墟ですよ」と装飾された町並みではなく、自然とうらぶれた風情の漂う商店街だったり、家屋であることがわかって来たのである。デズニーランドの、わざと古めかして作った城や建物に対する嫌悪は自分にもあったので、大いに共感もしたのだが、話しているうちに自分で腑に落ちたことがある。要するに、茶道の茶室とか庵といったものは、maquillageされた廃屋に他ならないし、侘び寂びとは要するに廃墟への嗜好そのものだということだ。つまり、廃墟の美を好みながら、茶道のやっていることは過剰でわざとらしいのである。利休の美意識の中でそれをやれば、かろうじてmaquillageに堕すことなく洗練の極みと解釈することは出来ても、利休のやった同じことを金科玉条として守り続けることにおいて、廃墟を美とする感性はすでに蒸発してしまっているのである。その辺のインチキくささを嗅ぎつけて、多くの日本好きのフランス人が極めて安易に絡めとられることの多い「茶道賛美」と無縁でいられることが、このフランス人女性の感性の鋭さと強靭さを物語る。私は彼女から、なぜ自分が知れば知るほど茶道に違和感を覚えるのかという疑問への答えを得たような気がするのである。茶室や庵に感じる、廃墟好みの趣味は共有しながら、そこにある何とも言えぬ「嫌な感じ」の正体が、要するにmaquillage、言い換えれば人工的に作り込んだわざとらしさにあったことに、はたと膝を打つ思いであった。日本人の廃墟観では、「石」としての建造物と、そこに苔むしたものを想像しがちであり、実際自分はそういうものに憧れていたために、フランス人が日本の家屋や寺院に感じる「廃墟感」を共有できずにいたのだろうが、侘び寂びという感覚の本源に戻れば、茶室は廃墟の再現と言い換えても間違いではないことになる。洗練とは、やり過ぎと不足の間の微妙なバランスとして成立するものであり、利休の時代にそれをやれば洗練された廃墟のレプリカたり得たものも、同じことを21世紀にやればわざとらしいに決まっているのである。そのことを、彼女自身理解していたわけではないにせよ、廃墟への好みから茶道のまやかしを見抜いて、距離を置いていたとしたら、それは既成概念にまどわされない優れた感性と言うしかないであろう。私としては、茶の湯のそうしたまやかしや、利休の感性が成し遂げたもの・ことを無批判に繰り返す、現代の茶道の陳腐さに意識的でありつつ、良いところだけを汲み取ればいいのだという気がしている。茶の湯はもちろん悪いところだらけというものではない。ただ、欠点や本来の美意識とかけ離れた因習的な世界としての嫌らしさやわざとらしさを、軽やかに無視して、ぎりぎりの廃墟感を楽しむことも出来るはずである。私が茶の湯に求めていたことを認識させてくれた点で、彼女との出会いは実に意義深いものだったと思うのである。