音楽といふもの

 トッパンホールで開かれた神令尺八演奏会に行く。曲目は根笹派調・下り葉、越後三谷、布袋軒鈴慕、琴古流鹿之遠音、諸井誠作曲対話五題。最後の二曲は、それぞれ青木鈴慕藤原道山との連管。破綻のない綺麗な音色である。プロの演奏と言ってしまえばその通りだが、破綻なく安心して聞ける守りの演奏と言えなくもない。プロフェッショナルの守り、アマチュアの攻めとは、確かに失敗しても失うもののないアマチュアの強みをよく表すことばではあるが、それにしても守りに終始するプロというのも物足りなくはある。吹き終わって、聴いていた者もホッと息をつくような緊張感や高揚感を味わうことは終になかった。

 それは要するに、音楽というより、尺八の演奏に求めているものの違いなのかも知れない。藝大の邦楽科が、近代以降の産物である純粋な「音楽」を追究しているとは思わないが、尺八曲、特に古典本曲に関して言えば、それは均整と調和を尊ぶ西洋古典音楽や、音の存在感に意識的な現代音楽とは、出自も存在する場も、吹き手や聞き手の意識も明らかに違うものなのではないかと思う。讃美歌やグレゴリオ聖歌、或いは声明や梵唄が、今日的な意味での「芸術」として生まれたのではないのと同じように、尺八曲も、「音楽」や「芸術」というジャンルとして出来上がったものではない。もちろん、尺八曲の宗教性を過度に強調するつもりはないが、吹き手や継承者、そして聞き手の中に、虚無僧に由来する、漠然とはしているがどこかに共通点もある特定の精神性や心性が共有されているのではないかとも思うのである。そして、その心性の中では、奇麗で端正な演奏よりも、裏声やかすれや音割れをも、吹き手の感情や思いや熱意、迫力が伝わるものである限り、容認するというより「味」として賛美する傾向があるようにも思われるのである。そうした、書道で言えばかすれとか墨の滲みや染みのようなものを一切排除した文字を、果たして面白いと思うかどうかである。

 全く尺八曲を聞いたことのない人たち向けに、尺八曲の音色の美しさを知って貰って、興味を持たせるという「方便」であるのなら、理解できないことではない。しかし、伝統の継承を掲げる奏者にして、ただ奇麗な音の連なりの演奏が、果たして「音楽」以外の精神文化を伝え得るものなのか。音楽としての完成度なくして継承も何もないという意見もあるだろうが、私は尺八の雑味のような雑音や音割れ、かすれて殆ど息の音になっているところまでも、誠実に吹かれた演奏の中では気にならないどころか、尺八の醍醐味ではないかと思っている。求めているものの違いは明らかであろう。