赤い星

 

 与那原恵著『赤星鉄馬消えた富豪』読了。珍しく新刊本屋に立ち寄った際に目に留まり、読みたくなって購入。あっという間に読み終わった。

 帯に「いったい彼は何者だったのか?」とある通り、赤星鉄馬のことを知る人はほとんどいないだろう。かく言う私も、大正6年の赤星家売立のことを知っていただけで、あの赤星家のことかと思い手に取ってみてその赤星家の人間であることが分かり、確かに赤星家について何ひとつ知らないことに気づいたのである。赤星家売立は茶の湯通や骨董好きなら知っていようが、出品された国宝級の美術品の多彩さと入札総額の大きさで世間の耳目を集めたものであった。同時期に秋元家や佐竹家、伊達家といった旧大名家の売立が相次いでいたから、赤星家も大名か維新の功臣か何かだろうと思っていただけで、その正体を知ろうともしなかった。だからこそ今回興味を持った訳だが、その境遇と生き方はなかなか興味深いものであった。薩摩生まれの父、弥之助が薩摩閥の力を借りて軍艦購入のコミッションなどで巨利を得て、生まれながらにして富豪の長男となったのが鉄馬である。中学を出るとアメリカの全寮制のボーディング・スクールに通い、長じてはフィラデルフィア大学に進んだ。潤沢な送金でゴルフに釣りにと学生生活を謳歌し、夏休みにはヨーロッパ周遊の旅に出て、帰途には当時最速を誇ったルシタニア号の処女航海の一等船室の客となった。ところが在学中に父弥之助が50歳の若さで世を去り、鉄馬は23歳になる前に莫大な財産を受け継ぐことになる。しかし、事業を拡げるような活動は行わず、幾つかの会社に投資したり、啓明会という学術研究への助成を行う財団の設立に資金を投じたりするものの、極力表に現われずに、趣味のゴルフや釣りを楽しんで1951年に69歳で逝去。自分や赤星家のことは何も語らず、何も書き残さずに逝ったのである。それでも、海外留学や薩摩閥を中心とし、樺山愛輔や吉田茂、レイモンドをはじめとする、政財界の有名人とのさまざまな交友は興味をひく。境遇や教育、育ちの良さや財力を共有する、明治の世を切り開いた第一世代の息子世代に当たる、同年代のエリートたちとの結びつきも、山口昌男が切り込んでいてもおかしくはないほど関心をひくものであった。もともと私は、良家の子女の教育環境や海外留学にまつわる話には興味があり、白洲正子白洲次郎から近衞文隆、犬養道子などの書いたものや、それらの人びとについて書かれたものを好んで読んで来た(ただし、今では白洲次郎は嫌い)。一方で、苦学して海外留学した人たちの記録も好きで読んで来たから、両者の境遇の違いはよく分かる。その上で言うと、やはり恵まれ過ぎた環境に育った人々はさほど大きな仕事をすることは少ないが、戦前までの日本ではそれなりに必要な存在であったということだ。そして、事業や学術で名を残さなくても、十分に複雑で興味深い人はたくさんいて、赤星鉄馬もそのうちの一人であることは間違いない。

 ゴルフや釣りを通じての人脈や交流は、山口昌男的な人的ネットワークの研究対象となり得るし、一方で目立たないよう細心の注意を払いながら、寄付や慈善事業に協力的なアメリカ型の富豪の典型を生き、拡大はしないが資産を蕩尽したわけでもない鉄馬の生き方は、近代の経済史、経営史、経営者像研究などの対象としても面白そうである。例の売立にしても、絶妙なタイミングで骨董を売り抜けて巨利を得たとも言える訳で、ただのボンボンではなかった訳である。朝鮮で経営していた大規模な農場を敗戦で失っても、戦後に財産税の課税で多くの資産を失っても、決して嘆いたり愚痴を言ったりはしなかったというその態度も、ある時期のある種の日本人に見られた人生に対する諦念を感じさせて潔い。一方で、自分の財産に対するどこか醒めた目があったればこそ、趣味や生活を楽しむことに一途になれたのかも知れない。いろいろなことを考えさせてくれた好著であった。