學魔降臨

 先日高山宏大人(うし)の謦咳に接する機会があり、大いに刺激を受けた。その博識ぶりはよく知られていようが、そのとどまるところを知らぬ博覧強記の引用と脱線に次ぐ脱線の語り口には、長いこと大学の教員として学生を惹きつけてきた熟達の技があり、時に傲岸ともとれる自慢や他の大学教授や学者・作家への批難罵倒も、その理由が明らかにされているから気にならない。傲慢も芸のうちなのである。そして、極めて知的でペダンティックな話をしているのに、なんとも言えぬ愛嬌もあって、聞く者の心を和ませてくれるのだ。それに、読むこと、知ること、考えること、書くことを本当に楽しみにしているのがよくわかる。ふたつの全く別の事柄に思いもよらない関係や因縁を見つけた喜びが伝わって来るのだ。今まで、もちろん何冊かは読んでいたし、その読書体験から尊敬はしていたが、初めて面晤が叶いことばを交わしてみて、それが敬愛私淑に変わった。

 すぐに大人の本を購入して読み始めたのは言うまでもない。こんな面白い本をまだ読んでいないのと指し示してくれた『超人高山宏のつくりかた』をまず注文。つづいて『綺想の饗宴』『ガラスのような幸福』を注文。最初の本は先日の語り口を彷彿とさせ、笑わせ興奮させ、ときにしんみりもさせる至芸。あっという間に読み終えた。憚ることなく披歴しているモトネタやそれらを料理していく方法論、というより芸風は大いに参考になり、自分の今後のもの書きに指針を与えて貰った感じである。さらに『ガラスのような幸福』を読み始めると、その一文一文が刺激の塊のようなもので、自分の執筆プランのアイデアが次々と湧いてくる。本は線引きと空白へのメモ書きで瞬く間にノート状態となり、脳細胞がフル回転する快楽を久しぶりに味わった。大人は「學魔」を自称しているが、その足元に及ばないまでも「學鬼」くらいを名乗れるように精進したいと思っている。

 それもあって、今後書いていくテーマが絞れて来て、大人の本をふくめテーマに向けた本を大量に買い込むことが予想され、必ずしも執筆に適した書棚や机廻りになっていない現状を変えるべく書斎の整理を始めた。いずこも同じであろうが、増え過ぎた本で目当ての参考書をなかなか探し出せず、資料コピーもきちんと整理されずに見つけるのに骨が折れるという状況なので、家内の実家に貰っている本の別置きスペースに思い切って当面のテーマではない書籍を大量に移すことにした。選別とリスト化に合わせ、良い機会なので古い文庫本なども大量に処分することにした。主に中高生の頃に読んだ小説の類で、漱石、鷗外、芥川、三島(豊饒の海だけ残した)、太宰、井伏、北杜夫、藤村(夜明け前だけ残す)堀辰雄中野重治、小川国男、深沢七郎(楢山節考だけ残す)伊藤整山本有三久米正雄有島武郎、伊藤佐千夫、吉行淳之介武田泰淳などである。漱石は全集全巻、鷗外は選集や全集で主だったものはあるのだから、もっと早くに整理してもよかったのである。他の作家も、改めて読むことは、少なくともこの先23年の内にはなさそうだし、もし読む気になったとしても、あの頃の文庫本は活字が小さいから所蔵の文庫本を読み返すことはまずないのである。一部を参照したい場合はネットで簡単に引けるし、図書館も自宅から近いのでそれほど不都合はない。これまで惰性で持ち続けて来たが、さすがに古くて古本屋に持って行っても売れる訳もないので、残念ながら紙ごみとして廃棄するつもりである。本を捨てるのは心痛むことではあるが、それらは今でも文庫本で手に入るものだからやむを得ぬこととした。

 ところで、整理していくうちに一冊の本が見つかった。それが『超人高山宏のつくりかた』であった。買っていたのにまた買うことはこれが初めてではないがそう多くはない。しかし、高山大人の本を買っておきながら読まずに忘れていたことはショックであった。高山先生ごめんなさい。