天皇家対伏見宮家

 駄場裕司『天皇と右翼・左翼』を昨日読み終えた。かなり面白い本である。近代日本の隠された対立構図を天皇家vs.伏見宮家皇族の対立を軸として読み解くもので、多少穿ち過ぎの嫌いはあるが、それでも「そう考えた方が確かに分かりやすい」と納得してしまうことが多く、まるで知らなかった驚くべき事実も少なくない。要するに、個々人の思想や言動を、家系や血縁関係、閨閥、人脈・交流関係、利害関係や学閥の中に置き直すことによって、隠された、或は隠しておきたかった様々な真実が明らかになるという訳である。個人の思想や言動のすべてがそれらで決まるとは思わないが、個別に見ていてはわからない、血縁関係によるとしか思われない隠された意図がそうしたことを知ることで浮かび上がってくるのも確かである。「血縁」による、どす黒い怨念と保身の本能が「思想」を盾として暗躍するだけで、本来思想やイデオロギーは後づけではないかと思えるほどに、こじれた感情的な対立が近代日本の歴史を通底しているようにも見えてくる。政治思想における「左右」の対立など上辺、表層に過ぎず、その下には血縁的な怨恨や野心、感情的な憎悪・対立が渦巻いているのである。その結果、日本では世界的標準としての「左右」の対立構図は成り立たず、上記の対立軸が左右を巻き込んで入り乱れた結果が、この無様な体たらくだとも言えるのである。

 もともと、趣味が藤原氏系図作りであることからも知れるように、わたしは個人としてよりも氏族・血縁・親戚関係といった出自を重視する方ではあったが、それでも、近代以降の日本では皇国史観とかマルクス主義といったイデオロギーの方が個人の思想や言動により大きな影響を与えるとの前提に立っていたところがある。特に「学者」と呼ばれる人たちはそうなのではないかと思ってきた。本書を読むことでそれが幻想であることを知った。学者の多くが、基本的に「いいとこの出」で占められていた時代では特に、親や先祖、姻戚関係からの呪縛と束縛を免れぬものであることを痛感させられたのである。高等教育を受けることが特権的であるが故に、その特権を享受できた人々は特権の由来である祖先や親族、「家」の権威・権力から自由になれず、一族の背負った政治的立場や人間関係を踏襲し強化することしか出来なかったということであろう。親の世代と正反対の思想に足を踏み入れながら、生活に窮して援助を求めるのが親と同じ側に立つ知人・恩人だったりする「甘さ」と「緩さ」が至るところに見てとれもする。

 それはともかく、以下に本書による驚くべき事実を列挙してみることにしたい。

・「左」寄りとされる朝日新聞主筆であり政界に転じた緒方竹虎玄洋社の大物であった。

昭和天皇朝日新聞の代表者とは何度か会っているが、読売の正力松太郎と会ったのは二回だけ、産経新聞社代表とは一度も会っていない。

大杉栄の死を最も悲しんだのは杉山茂丸広田弘毅だった。

後藤新平の孫である鶴見俊輔ベ平連KGBの支援を受け、杉山茂丸の孫龍丸をベ平連に取り込んだ。

神谷美恵子ハンセン病患者の強制隔離などで批判されることの多い光田健輔の側に立っていた。

日本共産党は日ソ国交樹立に積極的な杉山茂丸後藤新平内田良平玄洋社系勢力の対ソ交渉窓口として設立されたとしか考えられない。

1920年代前半の玄洋社黒龍会は「反ソ反共」ではなく、「親ソ容共」だった。

・幕末の倒幕派明治天皇擁立派)と公武合体派(久邇宮朝彦・北白川宮能久派)の確執が現代まで続く社会と政治の対立を生んだ。

・戦後、北白川道久を天皇に据えて皇統護持を図ろうとする動きがあった。

大本教系の軍人は昭和天皇を正当な天皇とみなしていなかった。

伏見宮博恭親王昭和天皇以上に対米開戦の責任がある。

高松宮も開戦論者であり、戦犯である。

・戦後、左翼は伏見宮系皇族の戦争責任を免責し、ひとり昭和天皇にのみ戦争責任を押しつけようとした。

・戦後の共産党幹部や同党陣営の歴史学者などには日本軍関係者や軍高官の子弟が多い。

・フェラーズ准将が天皇制存続に重要な役割を果たしたかのような論調が見られるが、中東で大失策を犯して左遷されて来たフェラーズにそれほどの力はなかった。その事実に沈黙してフェラーズの功績を讃えるような論文を書いた日本の学者は、フェラーズの不名誉が明らかになると一族が損害を被る利害関係者であった。

・フェラーズはクエーカー教徒で反共極右団体に加入していた。日本のクエーカー教徒には極右の人間が多い。

・ブントの幹部は反岸であっても反米ではなかった。

・戦後日本の「左右」対立は、米ソ冷戦下でCIAとKGBの双方から採算度外視の金を巻き上げるためのフェイクだったのではないか?

 これらは本書に書かれたことのほんの一部に過ぎないし、それぞれの詳しい内容は本書を読んで貰うしかないが、すべてが駄場の示した対立構図で説明がつくとは思えないものの、過去150年の日本の歴史をこうした視点や角度で見て来なかったのは確かなので、きわめて新鮮で刺激的な示唆を得たように思う。わたしとしては特に、ジョン・ダワーやハーバート・ヒックスの本を、そうした背景を知らずにきわめてナイーブに読んでいたことを恥じるのみである。複眼的な読みだけでは警戒が足りないようだ。学者の学閥や学派はもちろん、家系図や親族関係、宗教環境なども理解した上でないと、一見純粋な学術論文のように見える文章の下に隠された意図や思惑・陰謀を見過ごすことになるのかも知れない。一応断っておくが、駄場の主張すべてを正しいとは思わないが、この本が少なくとも「陰謀史観」に基づくものでないことは確かである。