明治の闇―神社合祀と樟脳

[数日前、このブログで平田東助の名前を出したが、たぶんあまり知られていないと思うので、わたしが平田を嫌う理由となった「神社合祀問題」について以前書いたものをここに掲載することにしたい]

 

 明治三九年八月、「神社合祀の勅令」というものが発布された。明治初期の廃仏毀釈と並んで、明治政府による宗教政策上の二大暴挙と言われる神社合祀であるが、南方熊楠柳田國男が反対運動に回ったことくらいは多少知られていても、一般的には廃仏毀釈にくらべてその詳細はあまり知られていないように思われる。

 わたしもたまたま、樟脳について調べていてネット上でみつけた『隠されたクスノキ楠木正成』なる文章の中に、「樟脳専売」のための神社合祀という一節を読んで初めて知った。書いたのは講談社+α新書に『隠された皇室人脈』の著書もある園田義明という人。政治学者のようでもあるが、多少怪しさを感じさせる人ではある。『萬晩報』なるサイトに掲載されたもので、主張はずばり、神社合祀は樟脳の原料たるクスノキを全国の神社所有の神林から伐採すべく長州閥の官僚が仕組んだものということである。行論はかなり強引で、歴史的事実の誤認もあるので真に受けはしなかったが、神社合祀について知らなかった分興味は持った。

 また、同じく樟脳の参考文献として読んだ『香料植物』という本にも、園田の主張を下敷きにしてそれが真実であるかのような記述があって余計に気になりだした。まあ、その本の著者吉武利文という人は、昔から香料関係の本を書いているが、香りのデザインなどという多少ウサン臭いことをしている人であるし、基本的な歴史認識がずれていたり、論理の飛躍が大きかったりするので、言っていることをそのまま信じる気にはなれないのだが、とにかく真相を知りたくて熊楠の「神社合祀に関する意見」をはじめとした合祀問題に関する本を読みはじめた。

 そこで気づいたのは、神社合祀に関する研究そのものがきわめて少ないということだ。熊楠をエコロジーの先駆者として、その合祀反対運動を高く評価する向きの言及は少なくないものの、神社合祀の動きを総体的に捉えている書物はわずかしかない。しかも、その数少ない文献を読むうち、神社合祀という問題だけを見ていても何が何だかさっぱりわからないこと、そしてその背景を理解するためには日露戦争後の社会の変動、特に農村部におけるそれを知らねばならないことが見えてきた。

 ところが、日露戦争の後から大正に到る五~六年というのは、日露戦争前の臥薪嘗胆だの戦中の日本海海戦だのがあるその前の時期と、大正になってからのデモクラシーの拡大やモダン文化の誕生というとっつきやすい話題の多いその後の時期とのはざまにあって、あまり人々の興味をひかない期間ではないかと思われる。戦争を中心とする日本近代史教育記述の弊害ということもあるが、少なくともわたしはこの頃の出来事にあまり関心を払って来なかった。しかし実際には、この時期に社会の大きな地殻変動がおこっていたようなのである。

 強国ロシアとの無謀とも思われた戦争に勝利を収めたことで、日本は一等国の仲間入りをしたとはよく言われることである。しかし、戦費が年度国家予算の七倍に及んだことは国家財政に深刻な影響を及ぼしていた。その間の増税は農村の疲弊をもたらし、働き手の軍隊への応召もあって農地の荒廃も見られるようになったという。戦争に勝ったとは言え、一等国化にともなうその後の軍備費や外交経費の増大も見こまれ、国民の租税負担の軽減など不可能な状況であり、ようやく人心も政府の政策に反発を感じはじめ、日々の生活にも倦怠ムードが広がり出していたという。そうした社会情勢を踏まえ、内務官僚を中心とした支配階級のあいだに、日本がその一員となった帝国主義的社会体制に即応するために、社会の全面的再編成が必要との認識が強まる。その具体的な動きのひとつが、「地方改良運動」と呼ばれるものであった。

 その背景には、すでに述べたように農村の疲弊、動揺、分解があり、戦時増税政策の継続の結果としての地方町村財政の破綻があった。また、税金の滞納は自作農の没落をもたらし、地主と小作の関係を悪化させ、あぶれた労働人口の都市への流入といった社会問題も露呈しはじめていた。そうした中で官僚が考えることは、農民の救済などではもちろんなく、増大する国家財政をまかなうため、きちんと租税を納め得る地方町村をいかにして作るかにあった。そのようにして、地方農町村を国家の要求にふさわしいものに変革するために採られた方策が地方改良運動なのである[注-1]。その具体的な政策のひとつが、「部落有財産の統一」と呼ばれるもので、このことを理解するためにはまた少し時間をさかのぼらねばならない。そもそも、明治維新に至るまで、農村に現在のような行政単位としての村や町は存在していなかった。部落や村は、上からの区画というよりは、時間とともにおのずと形成された地縁的な村落と呼ぶべきものであり、その結合の目印とも言えるものが、名主の存在だったり、氏子として祭神を共有する村社といわれる神社、そして何より「入会地」と呼ばれる山林や湿地といった共有地の存在である。そうした部落村落のあり様を最初に変えたのが、明治二一年(1888)の「町村制」である。当時七万以上あった自然村落を併合して約一万三千の行政町村に再編し、もとの村名は「大字」とする。ただし、この時政府は町村を施政の方針に沿って制度化するのに急で、入会地については旧来のまま部落の共有とした。同時に組み入れるとなると、農民の抵抗や手続きの煩雑さが予想されたからである。

 こうした背景を持ち、いつの間にか「部落有財産」という、いかにも官僚の考えだしそうな名前に替わっていた入会地を、行政町村の所有として有効利用し、そこから得られる利益を町村の財政基盤としようとしたのが「統一」の意味であり、統一と言えば聞こえはいいが、要するに国家による私有共有財産の簒奪である。この方針を指示したのが明治三九年の五月に開かれた地方長官会議であり、主宰は内務省、当時の内相は第一次西園寺内閣下の原敬である。そして、この時同時に出されたのが神社合祀の方針であり、それを具体的に命じたのが八月の勅令とされる。ところが、この勅令が読んでみると実に不思議な文面なのである。

【神社寺院仏堂ノ合併ニ因リ不用ニ帰シタル境内官有地ハ官有財産管理上必要ノモノヲ除クノ外内務大臣ニ於テ之ヲ其ノ合併シタル神社寺院仏堂ニ譲与スルコトヲ得】

という、神社合祀を命じたのではなく、合併により生じる余剰地や資源、什器の処分に関するものなのである。それに先立つ「神社合祀」の子細の記述がなければ意味を成さないので、調べてみると国立公文書館デジタルアーカイブにこの勅令に至る文案に背景をしめす記述をみつけた。それによれば、現在社寺の数がはなはだ多きに失し、社殿堂宇が壊れて維持も困難となるもの少なくなく、「崇敬ノ實」を挙げていない。こうした名があって実のともなわない社寺は合併によって数を減らし、その結果不要となった土地は社寺の基本資産とし、それをもとに体面を維持するがよかろうということである[注-2]

 これだけでは神社合祀の実態も背景もよく見えてこないので、その前提となる神社中心主義と呼ばれる動きについて補足説明することにしたい。この神社中心主義の背後には、地方改良運動とも連動するのだが、要するに神社を地方自治の中心として、国家神道を基軸に、国や官僚にとって都合のいい共同体意識を作りだそうという発想がある。そのために神社の景観は崇敬の念を呼びおこすものでなければならず、神官は威厳と見識をもたねばならない。それなのに神社は数のみ多くして威容ととのわず、神官も生活に窮して人徳が伴わない。そこで神社を併合して余った土地の活用あるいは売却により財政の基盤とすれば神官の生活も安定し、国家主義の先兵となるであろう、という理屈である。そこで打ちだされたのが「一町村一社」という、行政単位の町や村にひとつの神社だけを残して、旧来の村落ごとにあったもろもろの神社を消滅させる方針である。ここにおいて神社合祀による神林の処分(売却)と部落有財産統一とがシンクロしていたことが理解される。つまり、「国策」に乗じて、土地(入会地や神域)と森林資源(クスノキや杉、ヒノキなど)を奪いとろうとする点で、両者に共通する意図が透けて見えるのである。

 このことは、「大字」として残された村落共同体を、それぞれが持っていた入会地と村社を奪うことによって解体しようとする動きと言い換えることもできよう。あるいは、官僚および神職による国家神道を合理化・近代化させようとする動きと、村落の民衆が保持してきた習俗や民俗信仰との対立と捉えることもできる。こうした地域に根差した村社や入会地の消滅が、村落―今のことばで言えば地域社会―に与えた影響は甚大で、逆に言えば、われわれが今見る地方の村落とは、この時代に激変した後のものでしかなく、それ以前のすがたについては想像しかできないことになったのである。

 とは言え、そうした変動が全国的に一律に、かつ一気に起こったわけではないことは明言しておかねばなるまい。予想されるように、村落の抵抗・反対もまた激しいものがあったし、部落有財産の統一にせよ、一村一社に向けた神社合祀にせよ、府県知事などの地方行政官の裁量にまかされていたから、地域による取り組みのばらつきも大きかった。そんな中で、大きな変化が起こるきっかけとなったのが明治四一年(1908)七月の第二次桂内閣の成立と、同年十月に出された「戊申詔書(ぼしんしょうしょ)」と呼ばれるものの発布である。後者については後に触れることとして、前者について言えば、中でも内務大臣となった平田東助が神社合祀や地方改良運動を積極的に推進した影響が大きい[注-3]。それもあって、先に言及した園田義明は平田のことを長州閥の忠実な犬として奸物あつかいをしている。

 平田東助といっても知っている人は多くないだろうが、佐幕派好きのわたしは宮島誠一郎をはじめとする米沢藩出身の面々には馴染が深く、米沢藩藩医の家に生まれた平田の名も前から知ってはいた。「海軍王国」あるいは「米沢海軍」とも呼ばれ、海軍で要職についた者が多い米沢出身者の中にあって、東助は明治政府においてもっとも高位についたひとりである。驚くべきことに、平田は米沢出身にもかかわらず、長州閥の知遇を得ただけでなく、山縣有朋の姪を娶り、完全に山縣直系の官僚となって大臣を歴任し、伯爵の位にまで昇りつめたのである。先の園田によれば長州閥によるクスノキ利権のために東助が強引に神社合祀を推し進めたという解釈になるのだが、今まで見て来たような神社合祀に至る背景を知れば、ことはそう単純なものでなかったのは明らかであろう。ただ、結果から見れば、神社合祀でクスノキの供給が増え、それを樟脳とすることで長州閥の利益となった可能性はゼロではないが、実際に儲けたのは一部の腹黒い神官や斡旋した山師あるいは請負師の類だったのではなかったかと思う。ここではこれ以上掘りさげず、先に言及した「戊申詔書」について触れることにしたい。

 戊申詔書は、明治四一年(1908)十月に発布された詔書の通称である。この文案を作成し、反対を押し切って発布に漕ぎつけたのが他ならぬ平田東助であった。今日、その存在すらほぼ忘れられているが、当時は教育勅語とならんでさまざまな機会に「奉読」されるほど重要視されていた。三百六文字からなる漢文読み下し調の文章は難解だが、苦労して読んでみても、当たり前のことを言っているようにしか思えず、先に述べた日露戦争後の社会の倦怠ムードや浮薄に流れる風潮を踏まえてみても、何を言いたいのかよくわからない不思議な文章である。現代語訳がネット上にあったので引用すると、

【私(明治天皇)が思うには,現在,人類の文化は日進月歩で進み,東洋と西洋とは互いに信頼協力の関係にあって文明の福利を共有している。私はこの時に当たって,ますます外国との交わりを親密にし,友好の情を深め,列国とともに末永くその喜びに浸りたいと願っている。我が国をふりかえってみれば,日進月歩の世界のなかで文明の恵みを享受してきているが,そのことはもとより,自分の国を自らの努力で発展させてきたからである。日露戦争後なお日はまだ浅く,各方面の政治情勢は厳しく,一層手綱を引き締めていかねばならない。すべての国民が心を一つにし,忠実に仕事に励み,勤勉に倹約をして生計を立て,ひたすら信義を重んじ,人情の厚いことを気風とし,ぜいたくを戒めて質実を重んじ,荒んだ心や怠け心を互いに戒め合って,自ら励み勉め続けなければならない。そもそも我が神聖なる皇祖皇宗の遺訓と,我が国の光輝ある歴史の成果とは,太陽や星のごとくに明らかである。慎んでよくこれを守り,誠実に自らを打ち鍛え研ぎ澄ましてゆくならば,国運発展の基はすぐ眼前にある。私は現在の世界の情勢に対処するに当たり,私の忠良なる臣民の協力を頼みとして,維新の大業を拡張し,先祖の威徳に劣らぬようにと心から願っている。皆の者よ,私の願いを噛み締めて自分のものとしてくれるように】となる。

 歯にものの詰まったような物言いで、原文には格調もなく、橋川文三は「詔書」と名乗り明治天皇のことばとして発布されたにもかかわらず、「帝王としての威厳と雄大な気宇を欠如し」たものとして「教育勅語」の高邁と闊達にはるかに及ばないと評している。ただ、時代背景をよく理解した上で読めば、ことばの言外にある意味合いは会得できるのであろう。地方の官吏や官僚にはそれらがきちんと響いたからこそ、平田の推進した地方改良運動は着実に成果を挙げ、神社合祀もまた実行に移されたのである。その結果として神林のクスノキが伐採され、熊楠を合祀反対運動に立ち上がらせることになる。

 そこに至る道すじを、今度はクスノキや樟脳をめぐる状況から追ってみることにしよう。意外なことに、神社合祀にクスノキ利権にからむ勢力が介在していたことを示唆する状況証拠は、確かにたくさん揃っている。まず、明治三九年、神社合祀を命じた五月の地方長官会議や八月の神社合祀の勅令に先立つ三月に、樟脳事務局が全国のクスノキの数量調査をはじめたことが挙げられる。国内の主たる産地であった鹿児島や高知でクスノキの乱伐が続いて樟脳の産出量が減り、国内樟脳資源の残量を確認する必要にせまられたのであろう。その具体的な調査結果まではわからないが、クスノキがたくさん残存する地方として、和歌山や三重が注目されたことは十分に考えられる。木の国、紀の国である紀伊半島を二分する両県は豊かな森林資源で有名であるし、同時に古くから神社の多いことでも知られていた。熊野大社伊勢神宮があるのだから当然なのだが、神社があるということはその背後に神域として森林が広がり、手つかずの巨木が存在することを意味する。

 と言うことは、この両県において神社合祀による整理で神社が減れば、なくなった神社の周囲の森は処分の対象となってクスノキをはじめとした巨木を伐採することが可能になるわけである。しかも、両県は日本における樟脳製造や貿易の中心であった神戸にも近く、輸送が容易という利点がある。そして、ことはその通りに運んだのである。すなわち、神社合祀が最も激しかったのが三重県和歌山県愛媛県の順で、三重県では明治三八年に10404あった神社が、明治四三年には実に90%以上減ってわずか989社に、和歌山でも3727から879社へと76%以上激減している。減少率が5%未満の県もある中で、明らかに異常な数字である。

 他にも園田説を裏づける証拠としては、明治四〇年にそれまで専売局から独占販売権を得ていたサミュエル商会が突如契約を解除され、三井物産の取り扱いに変ったことがある。三井は言うまでもなく、とりわけ長州閥との関係が深い財閥である。また、この年に中国製の樟脳や合成樟脳が盛んに出回るようになり、しかもこの年から数年間、国営による国内クスノキ植林が最盛期を迎えた。裏をかえせば、競合品の登場で焦った専売局が国内のクスノキの乱伐を進めた結果植林せざるを得なくなったと取れなくもない。

 こうした動きの中で、紀州の由緒ある神社が毀され、神林の樹木が伐採されていくことに憤って南方熊楠が精力的に反対運動をはじめるのが明治四二年の九月以降である。当時田辺にあって粘菌の研究に打ちこんでいた熊楠は、粘菌が生息する神社の森が合祀によって破壊され、みずからが発見した粘菌や植物が絶滅する可能性があることを知り、あわせて払下げ地や木材の売買で私腹をこやす官吏や神職のあることを知って、研究をなげうって合祀反対の論陣をはるに至った。熊楠の論点は多岐にわたるが、要するに神社合祀が自然や史跡、習俗を破壊することで、本来の目的たる敬神思想や愛国心の涵養には役立たないばかりか逆の作用を及ぼしているということである。柳田國男を巻き込み、その支援を得て主張を『南方二書』など数々の論説にまとめて有識者や政治家に訴え、それらが功を奏していく様は、熊楠と國男の往復書簡から読みとることが出来る。

 一方で、神社合祀の強行によってクスノキが伐採されている実際の様子も書簡に見いだせる。たとえば、明治四四年六月十八日付の柳田への手紙には、親戚が神主を勤める闘鶏社に「ふと虫の知らせにや、ちょっと遊びに行き候ところ、三百年以上の古樟、実に健康状態にありしものを根から掘り、破片となし樟脳をつくりおり」と綴られている。ところが、これに先立つ前年の四月には、熊楠や柳田の反対陳情を受けて平田東助内相が神社合祀に慎重になるよう指示しているし、この年の四月にやはり平田は一村一社制が必ずしも政府の方針でないことを地方長官会議で言明している。にもかかわらずクスノキを伐って儲けようとしていた連中がいたわけで、上意下達の不徹底と言ってしまえばそれまでだが、少なくとも平田は神社合祀の終了に向け動いていたことが知れる。だから、園田や吉武が平田一派をクスノキ乱伐の元凶とする断定は、結果から目的を推し量ったことによる誤った解釈ではないかと思われる。それとも、おおよそめぼしいクスノキを伐りつくしてしまったので神社合祀もおしまいにしたのだと主張するのだろうか。

 こうして、神社合祀の嵐は明治の終りを待たずして過ぎ去った[注-4]が、それまでに失われた神社や祭礼習俗、神林は数知れない。その後復祀といって、もとに戻された神社も少なくなかったようだが、村落の神観念や、宗教としての神道信仰はこの間に劇的に変容したとされる。内務官僚の賢しらな政策は失敗に終わっただけでなく、その後の日本人の精神の荒廃のきっかけとなったのではないかと思う。この辺の考究は今後の課題である。

[注-1]地方改良運動には、社会主義運動への危惧から、地方において国家主義的な道徳観を徹底させることによってその拡大を未然に防ごうとする意図があったことも知られている。

[注-2]神社合祀は政府だけでなく、財政基盤の強化により国家の祭祀たる名実をあきらかにすることを望んだ神社界からも要望されていた。その背景には明治政府による神道政策の統一性のなさがあろう。

[注-3]平田は地方長官会議で繰返し地方改良運動の必要を説き、「地方改良事業講習会」を開いた。また、改良運動のもうひとつの動きで勤労・倹約を勧める「報徳主義運動」にも平田は積極的に関わっていた。

[注-4]実質的にはそうだが、貴族院が正式に神社合祀の廃止を決めるのは大正七年(1918)になる。

【参考文献】

宮地正人『日露戦後政治史の研究』東京大学出版会(1973)

〇芳賀直哉『南方熊楠と神社合祀』静岡学術出版(2011)

森岡清美『近代の集落神社と国家統制』吉川弘文館(1987)

〇『南方熊楠選集別巻・柳田國男南方熊楠往復書簡』平凡社(1991)

〇唐澤太輔『南方熊楠中公新書(2015)

田村義也南方熊楠と紀南の神社林」―エコ・フィロソフィ研究、vol.10(2016)

〇窪田祥宏「戊申詔書の発布と奉体」―教育学雑誌23号(1989)

吉武利文『香料植物』法政大学出版局 (2012)