一神教への吐き気

 きっかけは、香料について旧約聖書を調べたことに始まる。高校時代に岩波文庫の『創世記』を読んで以来、たまに文学や歴史書などに参照された『詩篇』や『雅歌』の一節を聖書協会訳で飛ばし読みすることはあっても、まともに読んだことはなかった。それが、調べ始めてすぐに旧約聖書の成り立ちについての自分の無知に気がつき、特に七十人訳ギリシア語聖書の存在を知って俄然興味が湧いてきた。秦剛平の入門書と翻訳を読み進め、さらにはヨセフスの『ユダヤ古代誌』を手に取った。

 ところが読み進めるうちに、ユダヤ教の神ヤハウェという存在に対し、軽蔑の念に近い嫌悪感を抱くようになった。もともと神の存在など信じはしないのだが、それにしてもこの神は酷いのではないかと思えてきたのである。いわゆる「妬む神」である点や、祭祀の道具にまで細かい注文をつけてくることで、どう考えたってこんな神が世界を創造したわけがないじゃないかと思うのである。そして、こんな神を信じる人々も、到底まともに相手にできる存在ではないと思える。それは、ユダヤ教キリスト教イスラム教も同じである。もちろん、良き〇〇教徒もいるだろうが、聖書に書かれたことを何ら誤謬のない真実として信じる原理主義者たちについては、「狂信」ということばしか思い浮かべることができない。理解不能というより、ただただ恐ろしい。反知性主義は教育格差のせいもあるかも知れないが、もっとどす黒い闇がありそうにも思える。つまるところ、一神教というものに内在する恐ろしさなのではないか。

 改めて一神教への吐き気に似た生理的な拒絶感が自分にあるのを知り、ちょっといろいろ考えてみたくなった。どう考えても、神は人間の脳が作ったものにしか思えないからである。そして、その自分の考えそのもののタイトルの本、『神は、脳がつくった』(E.フラー・トリー著)を読み、ドーキンスの『神は妄想である』を読んだ。我が意を得たりの部分も少なくなかったが、ドーキンスの論調に一神論的な無神論を感じて違和感も覚えた。どういうことかと言うと、宗教や神を敵視して、無神論を絶対視していくその姿勢が、我々日本人には一神論と見分けがつかないくらいに独善的な感じがしたのである。自分の考える、あるいは感じる無神論と宗旨が違う(笑)のである。それで読んだのが、中村圭志という人の書いた『西洋人の「無神論」日本人の「無宗教」』という本で、こちらはまったくすとんと腑に落ちる話ばかりで、自分の立ち位置のようなものが理解できた。

 詳細は追々書いていくこととして、そんな時期に映画『アレキサンドリア』を見て古代末期のキリスト教徒の暴挙や横暴を知り、そのヒロインであるヒュパティアのことをもっと知りたくなってその名も『ヒュパティア』を読み、四~五世紀の古代ローマ帝国史に関する無知に愕然として手に取ったのが「ローマ人の歴史」だったのである。