暗寂

十月三十日(月)
眠れぬ日々が続いている。時差ボケのせいばかりではない。つらつら自分の人生を省みて無念と寂寞の思いを抱き、この先を考えて不安と焦慮に苛まれる。私はどこか暗い影のある人生を歩んで来た。性格と境遇が相俟ってそうなったことは分かっているし、全ては自業自得と納得もして来たつもりだ。それでも不意に、どうしてこんなことになってしまったのかと思えば悄然となることがある。諦めることで日々の平穏と精神のバランスを取って来たつもりでも、その諦めが悲嘆の主因となってしまうことがあるのだ。そして、こんな自分が決して人や家族を幸せに出来ぬことに思い至って絶望的な気持ちになり、それなのにのうのうと生きて来たことに冷笑的な気分になる。私は何ほどの者でもなく、何ほどのことも成し遂げて来なかった。それでいて謙虚に生きる訳でもなく、何ほどの者であるかのように振舞って来たのかも知れない。反省しているのではない、馬鹿馬鹿しい話だと呆れているのである。自分の頑なさ、不寛容、我儘。世間への侮蔑とその世間への甘え。思い遣りや優しさの欠如...。そんなことに改めて気づいてしまえば、眠れなくなるのも当然だ。それが唯一のまともな神経というものであろう。こんな人間と倶に暮らす人の苦衷を思えば、申し訳なさに気も狂いそうになる。それでいて、その人を思い遣ろうとか、その希望や夢を叶えてやろうとは思えないのである。私は多くの誤ちを犯して来た。これ以上人を傷つけたくはないのだが、結果としてこれからも人を傷つけ、自分の人生をさらに暗いものにして行くのだろう。私は一体何をやろうとしているのだろうか。何を仕出かしてしまうのか。或いは、結局何も変わらずに生きて行くことに何の意味があるのかと問うべきなのかも知れない。
それでいて、本当は分かっているのだ。ここに書いたような苦しみを真に味わっている人は、こんな公衆の面前に触れることになる場で真情を吐露などするものではないことも。いや、むしろ本当に苦しんでいる人はその原因や苦悩の様をことばで表現することもできないからこそ悶々と苦しむのであって、私のようにその要因と様相をことばにしてしまえば、なるほどそういうことかと納得して本来の苦悩とは別ものになると言った方がいいのかも知れない。だからこうして私がくどくどと書き綴るのは、苦悩の表白というよりは、悲惨健康法、或いは悲嘆健康法とでも言うべきものであって、これにより私は鬱病のような状況にならずに済んでいることも理解はしているのだ。二時に起きて、これを書き始めてその後二度ほどベッドに入って眠る努力を続けてみたが、やはり空しく時間だけ過ぎ、起き出して嶺庵を無きものにするために静かに文物を片付けて今五時である。文人であろうとする幻想も破れ、ついに現実世界の敗者として以外身の置きどころがなくなってしまった。定年近くのひねくれた無能のサラリーマンとして、胃の中を真っ黒にしながら生きて行くより他はないのだ。出来れば顔から一切の表情を消して、常に変わらぬ顔つきで日々を耐え忍んで行きたい。今望むのはそのことだけである。