《「間(あいだ)」の抜けた映画―エリセとアナの四十年》

 映画が始まると映画の冒頭部分が映しだされ、そして、映画の最後になると映画の結末が流されていく。…なんとわかりきったことをくどく言うと思うだろうか。そうではないのだ。最初の「映画」はヴィクトル・エリセ監督による『瞳をとじて』であり、冒頭と結末だけが映し出された「映画」は、映画の中の登場人物である映画監督ミゲル・ガライがかつて撮影した未完の作品『別れのまなざし』なのである。

 よくある劇中劇ならぬ映画中映画と言うこともできるが、話はそう簡単ではない。始まりと終わりの「間(あいだ)」にあるべきものが抜けているのは、『別れのまなざし』のみならず、『瞳をとじて』という映画に隠された数々のモチーフと言うべきだからである。

 始まりと終わりが問題であることは、『別れのまなざし』の舞台となるパリ郊外の邸宅の庭に立つヤヌスの像が、冒頭のシーンのみならず本編のエンドロールで何度も映し出されることからも想像できる。古代ローマの神ヤヌスはふたつの顔を持ち、出入口や始まりと終わりを守護するが、映し出された彫像は片側が青年、背中合わせの反対側が老人の顔になっている。

 かくして、始まりと終わりは若さと老いという対称に重なるものと理解することもできよう。さらに、別れと再会、失踪と帰還、あるいは栄光と凋落といった、始まりと終わりという両極のバリエーションを交錯させることで重層的なストーリーないし物語が可能となる。

 それらの相反する両極の間にあるものとは、さまざまな事件や出来事、ドラマあるいは人生そのものということになるが、究極的には「時間」ということになろう。長い時の流れこそが、「間」にあったもの、あるはずのものである。

 映画『瞳をとじて』について語るために、わたしも「始め」から話をしなくてはならない。私的な事がらに触れることになり、遠回りをすることにもなるが、とにかく書いていくことにしたい。

 ときは一九八五年にさかのぼる。四十年近くも前のことである。この年の四月にわたしは大学を出て就職をした。就職をしたと言うより、右も左もわからぬ化学の会社に就職したことに呆然としていたと言った方がいいのかも知れない。未来に対する小さなざわめきを胸のうちに感じながら、先を見通せるわけでもなく、こんなことをしていていいのだろうかという思いで当惑していたのである。それでも、今思えば、バブルの前の静けさとでもいうべき、どこか落ち着いた静かな春だったような気がする。その後に起こる日航ジャンボ機墜落事故(八月)の衝撃や、プラザ合意(九月)後の世界の激変を知っているからそう思えるだけかも知れないが…。

 この年の早春から今はなき六本木シネヴィヴァンで上映されていたのが、ヴィクトル・エリセの長編第一作『ミツバチのささやき』である。就職して地方の工場勤務になる前に観たのか、それとも五月の連休前に東京に戻った際に観たのか記憶はさだかではないのだが、たしかに観たのである。当時とても話題になっていた映画であり、評判にたがわぬ宝石のような作品だった。主役を演じたのが、撮影当時五歳だったというアナ・トレントである。その愛らしく無垢な表情と大きな瞳は観る者を魅了してやまなかった。わたしもアナのファンになり、監督のエリセにも注目することになった。

 それが「始まり」なのだが、それから「今」に一気に話は飛ぶ。アナ・トレントが出演しているエリセの新作映画が日本で上映されていることを友人から聞いたのは、つい最近のことなのである。

 『ミツバチのささやき』の後に上映されたエリセ監督作品の『エル・スール』も、『マルメロの陽光』もたしかに観てはいる。しかし、それ以来今回の新しい映画の情報を聞くまで、エリセもアナ・トレントのこともわたしはすっかり忘れていた。もともとエリセが極端に寡作ということはあるにせよ、クストリッツァジャームッシュなどの新作や旧作は映画館に観に行っていたのに、エリセのことは思い出しもしなかったのである。

 それが、四十年という歳月を経て、まさにわたしの就労期間の最後の数年になってふたたび、アナとエリセが現れたことになる。懐かしさとその間の自分の人生を振り返って感ずるかすかな悔恨の思いが混ざりあって、何としても観たいと思った。長い間音信不通だった知り合いの所在が判明したのに近い気持ちで、とにかく観に行こうと思った。

 上映館を調べてみると、すでに上映期間が終わっているところも少なくなかったが、幸い自宅からそう遠くない藤沢の鵠沼海岸にある小さな映画館にまだ掛かっていることが知れた。四時からの上映のみということなので、在宅勤務の日に時間休をとって行くことにした。

 初めて降りる鵠沼海岸の駅前からシネコヤという映画館までの細い通りは小ぎれいな舗装がほどこされ、洒落た感じの店も多い。閑散としているわけでも、かと言って人が多いわけでもない、何とも心地よい街並みに感じられたのは、三時過ぎという時間帯のせいだろうか。チケット売り場で入場料を払うと、四番目の客であることを示す札のようなものを渡される。四時開場まで喫茶店を兼ねた一階のスペースで待つことになる。壁の書棚には映画関係の書籍がびっしりと並び、オーナーなのか店長なのか、その映画愛が伝わってくるが、久しぶりに映画館に足を運んだ身としてはちらと目をやっただけで後は持参した本を読んで過ごした。

 やがて四時になって一番の客から案内が始まる。ところが、それが大層時間がかかるのだ。ひとりずつ席を選ばせ着席するのを見とどけてから次の人を呼ぶからである。四番目のわたしが呼ばれたのは四時五分を過ぎていた。二階の客室に入ると、ふつうの椅子が並べられ、二席の間にひとつ飲みものなどを置く丸テーブルが用意されている。おそらく三十席もないのではないか。わたしの後も客はゆっくりと入って来たが、全部で十五人いたかどうか。

 それにしても、エリセが監督したのは『マルメロの陽光』以来の三十一年ぶりだという。アナ・トレントに至ってはエリセ作品に出るのは五十年ぶりであり、彼女は今五十七歳になっているという。意外に自分と齢が離れていないことに驚くが、それは『ミツバチのささやき』が六本木で上映されたのが制作年よりだいぶ後だったことによる。いずれにせよ、目眩のするほどの長い時間が過ぎてしまったことに、あらためて打ちのめされるような気分になる。

 ありがちな感慨をここで繰り返すとすれば、指折り数えてみてもそんなにも長い年月が過ぎ去ったことがどうしても信じられない、納得がいかない気持ちでいっぱいということになる。こんなはずではなかったという思い。かくも長い年月、一体全体わたしは何をしてきたというのだろうか。何ひとつ思い出せない気がする。記憶に残っていないから、年月が圧縮して感じられるのだろうか。この四十年の「間(あいだ)」が抜けているのは、一種の記憶喪失ではないのか…。この先上映される映画の予告編を見ながら、アナとの四十年ぶりの再会への期待と、わたしの四十年の空虚さが響きあって、わたしはどうしてもこの長い歳月に思いを馳せずにはいられなかった。

 やがて映画が始まった。パリ郊外の古風な邸宅の広間にピアノを弾く得体の知れぬ大柄な老人と中国人の執事がいる。そこに中年の男性が呼び入れられ、大柄な主人と会話を始める。重々しいやりとりがあって、死を覚悟した主人が上海にいる実の娘に死ぬ前に会いたいから、探し出して連れて来るよう依頼をする。中国人の妻は娘を連れて男のもとを去っていたのである。娘が写った写真を受け取り、探偵らしき男は仕事を引き受けることにする。…そこまでが、映画の出だしに置かれた『別れのまなざし』の冒頭部分である。

 その後画面のトーンが変わって、その『別れのまなざし』の映画監督ミゲル・ガライが「未解決事件」というテレビ番組に出演することになることから、本編の物語が始まる。未解決事件とは、その映画で上海に行くはずだった探偵か何かの役を演じた俳優であり、ミゲルの親友でもあったフリオ・アレナスが、撮影途中に失踪して、二十数年後の今に至るまで、いまだに見つかっていない事態を指す。

 ミゲルは番組への協力や出演をきっかけに、あらためてフリオの失踪によって失ったものや自分の過去に向き合うことになった。ミゲルはフリオが姿を消したあと映画を撮るのをやめ、小説やシナリオを書いていたこともあるが、今は地方の海辺の町で、漁業の手伝いや読書、執筆をして暮らしている。テレビの収録のためマドリードに赴いたミゲルは、冒頭に映し出された『別れのまなざし』のフィルムの古いリール―すなわち「映画の缶詰」!―を、テレビ局に提供するために映画史の生き証人のような旧友マックスのもとを訪ねる。映画の歴史へのオマージュに満ちたマックスの部屋で酒を酌み交わすシーンは忘れがたい余韻を残す。

 さらに、「未解決事件」の番組への情報を得るため、ミゲルは我らがアナ・トレント演ずるところのフリオの娘アナに再会することになるのである。

 プラド美術館でガイドをしているアナと、ミゲルは美術館のカフェで会う。四十年、いや五十年の歳月を経た、五十七歳になったアナと(六十二歳のわたしと)の再会である。…どうしても、『ミツバチのささやき』のアナの面影を探してしまうのは、この映画を観る最大の動機だったのだから致し方あるまい。

 話をするアナのふとした表情のなかにちらとかいま見える五歳のアナの面差しを見つけ出してよろこぶ一方で、わたしは五十七歳のありのままのアナの容貌に感動していた。…もちろん、五歳のアナのあのあどけない可愛らしさはない。若さがもたらす輝きもないのだろう。それでいて、端正な横顔や瞳にひそむ奥深い光には、人の心をゆさぶる何かがある。

 美しいと、わたしは思った。年齢と関係のない女性の美しさ。『ミツバチのささやき』からこの時点までの間に、彼女に何があったのか、どのような人生を歩んだかは知らない。楽しいことも悲しいこともあったに違いない。五十年という時間の中で、誰だってさまざまな出来事に出会うのはわかりきったことだ。それでいいのである。あのアナが今目の前のスクリーンに映っている、そこに居てくれる、それだけで満足だった。〈間〉の時間は抜けていても一向に構わないのである。

 …そのことに気づいたとき、それは自分自身にもあてはまるのではないかという気がしてきた。すなわち、初めてアナを観た四十年前の自分と、再びアナと相まみえた今の自分がいる。その二点があること、昔の自分と今の自分が、その間にある時間を越えて向き合うことは、決して無意味なことではないと思うのだ。たまたま、それが就職と退職の時期に重なったために、始まりと終わりに擬えることになっただけで、「過去」と「今」が出会うことのこの不思議な感覚は、映画の魅力の根源に関わるものであるかも知れないとさえ感じられる。

 生きている限り「今」はある。その「今」が過去のある一点と結びつくことのよろこびは、再会の、帰還の、そして敢えて言えば映画の本質ではないのか。…映画の進行とはまったく別のところで、そんな思いがわたしの頭のなかを駆け巡っていた。

 話を映画に戻そう。わたしは先に映画『瞳をとじて』について、別れと再会、失踪ないし旅立ちと帰還といった、始まりと終わりのバリエーションとしてのモチーフが何度も繰り返されていると言った。その例を示していくことにしよう。たとえば、フリオとの思い出の品を取り出すために立ち寄った貸倉庫では、海軍での兵役で出会った若かりし頃のフリオとミゲルの水兵服の写真とともに、一冊のフリップブック(パラパラ)が見つかる。そこに映っていたのはリュミエール兄弟の「列車の到着」、すなわち映画(史)の始まりである。

 映画の終わりの方は、少しややこしい説明になるが、映画『瞳をとじて』の最後の場面で、アナやフリオ(後述)など少数の観客を相手に映画『別れのまなざし』の結末部分がマックスの手で上映されることになる、廃業になった映画館が象徴していよう。少なくとも、フィルムの映画は終焉を迎えたと言っていいからである。

 また、深読みしすぎかも知れないが、水兵服すら、始まりと終わりのバリエーションとしての「栄光と没落」のモチーフをなぞるもののように思われる。水兵服が、かつての大航海時代における覇権国家スペインの無敵艦隊を連想させるとすれば、今住んでいる海辺の町でミゲルが乗ることになる小さな漁船は、その栄光の成れの果ての姿ととれなくもない。

 この、「成れの果て」というイメージは、実はこの映画で何度も繰り返して表現されているようにわたしは思う。『別れのまなざし』の老主人は、時代の苦難の中で金も権力も手にしたユダヤ人のいかにも成れの果てという感じがするし、映画のなかでこの先発見されることになる老いさらばえたフリオの姿も同様である。成れの果てという言葉を字義通りにとって、かならずしも落ちぶれたりみじめになったりの意味でないことにすれば、アナにしたところで、我々は成れの果ての姿を観ているのである。

 ミゲルが映画監督をやめて書いた小説のタイトルが『廃墟』であったことも、成れの果てに響きあう。廃墟とは通常、往時は華麗で荘厳でさえあった建造物の成れの果てにこそ似合う言葉だからである。しかも、この小説の冒頭には、ポール・ニザンの『アデン・アラビア』から、あの有名な「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい──。」が引用されているのである! 若さの特権や賛美の拒否という、成れの果てに相応しいイロニーと言おうか、これもまた、始まりと終わりのバリエーションと考えるべきだろうか。

 ミゲルはその若書きの『廃墟』の一冊をたまたま古本屋で見つけて手にする。表紙をめくると、そこには自分がかつての恋人に捧げた献辞が記されている。その名前を見て、ミゲルはなんとしても彼女に会いたくなる。古い電話帳の番号にかけてみたり、彼女の弟に連絡して現在の居場所を聞いたりするのだ。…それは、アナ・トレントの映画が上映されていることを知って必死に上映館を探したわたしになんと似ていることか…。

 結局のところ、ミゲルはその女性に会うことに成功する。かつてタンゴの歌手だった彼女はミゲルの元恋人であると同時にフリオの恋人でもあった(彼女がフリオにタンゴを教えていたことが、後のフリオの呼び名の伏線になる)。駆け落ち同然にアメリカに渡ったあと、その男とも別れて彼女は今アルゼンチン(スペインの旧植民地)で音楽関係の仕事をしているという。たまたまスペインに戻っていただけで、このあと彼女はブエノスアイレスに戻るという。奇跡的なつかの間の再会を果たすも、再びの別れ―おそらくは永遠の―となった。

 こうしたエピソードが積み重なった末に、海辺の町に戻ったミゲルのもとに一本の電話が入る。フリオに間違いないと思われる男が、自分の勤める施設にいるという。テレビ番組の効果である。ためらいつつも、そこに行くことを決意するミゲル。地理的な関係はよくわからないが、ミゲルが仮の住居を置いている町からさほど離れていないと思われる、やはり海辺の町である。

 電話をかけてきたのは、修道女たちが運営するいわゆる老人ホームで、在俗のまま事務長のようなことをしている女性であった。彼女によれば、フリオとみられる男性は、数年前近くで倒れて病院にかつぎこまれたのをきっかけに、この施設に用務員のような格好で住みついているという。そして、男は記憶を失っていて、自分の名前もわからない状態だというのである。

 まずはその男を見てみたいとミゲルは言う。遠目に見てみるが確信が持てない。近くで食事をともにして、自分をまったく未知のものとして見るフリオのまなざしにショックを受けるが、事務長が示した証拠の品とあわせて、最終的にその男がフリオであることをミゲルは確信する。

 その証拠の品とは、男がずっと持っていた一枚の写真である。それは、ほかならぬ『別れのまなざし』の冒頭のシーンにおいて、老いた主人が上海から連れて帰ってほしいと依頼した、彼の娘の写真であった。中国服を身に着け、優雅に扇子を手にした少女の姿である。撮影の途中に失踪したフリオであることを示す大きな証拠であった。

 ミゲルは老人ホームに滞在して、フリオの記憶を取り戻そうとさまざまな接触をこころみる。単刀直入に自分の名を告げて、誰だかわかるかと問いかけるが、あっさりと知らないと言われる。水兵時代の写真を見せても、これは自分ではないし、隣にいるのもミゲルではないと否定されてしまう。

 フリオはこの施設でガルデルと呼ばれていた。フリオがタンゴを歌ったらしく、修道女がアルゼンチンの不出生の歌手カルロス・ガルデルからとって名づけのである。ガルデルは二枚目として知られ、フリオもかつては女性への情熱に憑りつかれた二枚目だったらしいが、今はまさに成れの果ての、頑固そうな老人の風貌になっている。

 そんなフリオに彼なりの方法で近づいて記憶を取り戻させようとするミゲルだったが、まるでうまく行かずに思いあまってアナに来てほしいと連絡を入れる。多くの浮名を流し、家族を捨てたも同然の父フリオに対し、アナは良い思い出をほとんど持たない。仮に記憶のない男が実際にフリオであったとして、今さら会って何の意味があるのかと逡巡するが、結局休暇をとって老人ホームにやって来る。

 フリオの寝泊まりする小屋に電灯がついているのを確かめ、アナは中へと入っていく。照明をつけたまま眠っていたフリオが人気に気づいてアナの方を向く。すると、「ソイ・アナ(私はアナよ)」と言って、アナはフリオを見つめる。これは、『ミツバチのささやき』におけるアナのセリフの、明確な意図のもとでの再現である。しかし、フリオは相変わらず感情がまったく動かない。異物を見るような目つきでアナを見つめ返すのみである…。

 数日してアナがマドリードに帰ることになったとき、ミゲルはある決断をして、旧友のマックスに電話を入れる。『別れのまなざし』の結末の部分のフィルムを持って施設に来るように頼んだのである。そして、町にある廃業した映画館を貸し切りにする手配をして、『別れのまなざし』を上映することにする。

 観客はフリオとアナ、修道女ふたりと事務長、そしてミゲルである。マックスは映写室で機械の操作をする。映写が始まり、我々は冒頭しか見ていなかった『別れのまなざし』の結末部分を目にすることになる。

 パリ郊外にある、トリステス・デュ・ロワと名づけられた邸宅の門に向けてフリオが歩いて行く。トリステス・デュ・ロワとはフランス語で王の悲しみを意味するが、字幕では「悲しみの王」と訳されていた。実はフランスの画家アンリ・マティスの有名な絵画の題名でもある。映画の冒頭の方のシーンで、この家の主人がチェスのキングが悲しそうな顔をしているからつけたと語っているが、それ以上この言葉の含意やメタファーはわたしには読み取れなかった。

 それはともかく、スクリーン上に映された映像のなかでフリオは少女を連れて登場する。それが写真に写された主人の娘であることはすぐにわかる。やや躊躇する少女を押し出すように邸宅に入っていくフリオ。広間には冒頭のシーンより健康状態が悪化したことが明らかな主人が咳きこみながら少女を迎え入れる。主人は彼女の姿をみとめると、何かをたしかめようとするかのように、布に花瓶の水を含ませて少女のアイメイクを落としてじっと彼女を見つめる。やがてその場で崩れ落ち、少女の腕の中で息をひきとる。

 それまで、何かに耐えるような表情をつづけていた少女が、わたしには意味をとりかねる仕方で泣き始め、そのまま泣き続ける。…画面は引いて映画館に戻り、そのシーンを見つめる、目を見開いたままのフリオの表情のアップに移って、『瞳をとじて』も終わるのである。

 そこまで観ながら考えていたあれこれをご破算にしなくてはならないと思うほどに、名状しがたい強烈なラストであった。わたしは身動きができなくなり、エンドロールが終わるのを待って、やっと足ばやに映画館を後にすることしかできなかった。

 それから数日後の土曜の朝、黄金町のジャック&ベティに出かけて、今度は『ミツバチのささやき』を観ることにした。と言うより、わたしはあえて、『ミツバチのささやき』よりも『瞳をとじて』を先に観ることを選んだ。自分の予定と上映スケジュールとの折り合いもあったが、それ以上に、その方がわたしにとっては自然な流れのように感じられたからである。

 とは言え、あの名作『ミツバチのささやき』である。混雑するだろうと思い、九時半には劇場に着いたのだが、予想したよりは客は入っていなかった。わたしと同じくらいの初老の男性客が大半である。若いときに観たうえで、アナに再会に来たであろうことがよくわかる。曜日や時間帯の違いはあるが、先日の『瞳をとじて』が老若の女性ばかりだったのと対照的であった。

 ブザーが鳴り、やがてアナと姉のイサベルが描いたクレヨン画のタイトルバックが始まると、わたしは四十年前と同じように一気に『ミツバチのささやき』の世界に引き込まれていった…。以下はわたしの解釈による、映画のストーリーの素描である。

 …カスティリア地方の小さな町に映画がやって来た。公民館が会場となり、子どもたちや老人たちが楽しげに集まって来る。上映されるのは『フランケンシュタイン』。恐ろしげなフランケンシュタインが登場すると、子どもたちはさまざまな表情を見せる。アナも子どもたちに混じって真剣なまなざしで映画に見入っている。映画のなかで少女がフランケンシュタインに殺された理由をアナは姉のイサベルにそっと尋ねる。そのときは答えなかったものの、夜眠る前にふたたびアナに聞かれたイサベルは精霊の話をもちだして適当に答える。アナはそれを信じ、自分も精霊に会いたいと思うようになった。

 なだらかなうねりの続く広々とした草原のなかにぽつりと建つ小屋がある。イサベルがそこで精霊に会ったと言う。何度かイサベルと一緒にそこを訪ねたあと、あるときアナはひとりで出かけて行き、そこに隠れていた逃亡者に出会う。男を精霊と信じたアナは持っていた林檎を与え、傷の手当をしたり、家から懐中時計の入った父親のジャケットを持って来て着せたりする。

 そうこうするうち、官憲に見つかった逃亡者は殺されてしまう。ジャケットと懐中時計を警察が引き取り、アナの父親が警察に呼び出される。自分の持ち物がどうして逃亡者の手に渡ったのか訝しむ父親。思案しながら懐中時計の蓋をあけてオルゴールが鳴り始めたときのアナの表情ですべてを悟る。

 アナがふたたび逃亡者のいた小屋に行くと、精霊の姿はもうない。あとをつけて来た父親を見て逃げ出すアナ。そのまま夜になっても帰らぬアナを、村人総出で探し始める。アナは夢とも幻想ともわかちがたい世界でフランケンシュタインと出会い、いつしか眠り込んでいたところを発見される。

 神経が衰弱して寝たままになったアナだったが、ある夜起き出して目に見えぬ精霊に向かって「ソイ・アナ(私はアナ)」とささやく…。

 文字通り四十年ぶりにこの映画を観て、細部の記憶違いはあったが、あのときと同じか、おそらくそれ以上に心を揺さぶられた。あらためて、四十年前にこの映画を観たほぼすべての人がアナに恋をしたことが痛いほどわかった。と同時に、純粋な子どもだけに見える精霊の世界への親近感が、四十年前のわたしにはかすかな残渣のように残っていた気もするのだが、いまや完全に枯れ果てたことを認めなくてはなるまい。間違いなく、わたしも成れの果てのひとりであるのだ。

 逆に、アナとイサベルの美しい母親の秘めた思いや家族への複雑な感情、あるいは、父親の茫洋とした存在感のこの映画における意味合いなどには、四十年前よりも理解が及んでいるかも知れないとは思う。

 それにしても、何をしていても可愛いのがアナである。靴紐を結ぶだけ、鞄を手に持って歩くだけで魅了されてしまう。頭に焼きついて消えない幾つかのシーン―逃亡者に林檎を差し出すところや、顔よりも大きなカップでミルクかコーヒーを飲むところ、線路に耳をあてて汽車が近づくのをレールの振動で知ろうとするところなど―は、記憶とぴったりと一致して、四十年という時間をまったく感じさせない。ただ、問題の「ソイ・アナ」を、わたしは逃亡者に出会ったときに言うものだと思っていたが、実際にはラストのシーンのつぶやきであることに気づいて、思い込みというか、記憶の捏造や上書きのようなものを実感することになった。

 愛くるしいアナ。その表情にわたしは『瞳をとじて』で観た現在のアナ・トレントの面影を探していた。つまり、『瞳をとじて』を観たときに『ミツバチのささやき』のアナを見出そうとしたのとは逆方向の「面影探し」をしていたことになる。それはまさに、先ほど述べた「間抜き」による過去と今との重ね合わせである。今回わたしは、四十年前の『ミツバチのささやき』を昔の記憶のままに宙吊りにして、先に『瞳をとじて』を観た。それから、さかのぼって『ミツバチのささやき』をあらためて観なおした。この順番の選択は間違っていなかったと思う。

 今回これを書くにあたって、わたしは『瞳をとじて』に関する他者の批評や映画を紹介する文章を一切読まなかった。そもそもが、いわゆる「映画評」を書くつもりではなかったからである。しかし、唯一の例外として、公式ホームページに掲載された基本情報と、エリセ自身の手になる「ディレクターズ・ノート」だけは目を通した。

 そこには、この映画のテーマは「アイデンティティと記憶」だとはっきりと記されている。だとすれば、わたしが今まで書いてきた、映画の仕組み自体に〈間(あいだ)〉が抜けているという解釈は、まったくの誤解とは言わないまでも、多少なりともずれていたと言うことになる。

 〈間〉を抜くとは、初めと終わり、過去と今、若さと老いを重ね合わせることにほかならない。わたしは自分の四十年の〈間〉を抜いて、アナと、そしてエリセの映画に再会した。きわめて私的な経験とからめたわたしの解釈じたいは、正鵠を射たものではなかったかも知れない。それでも、わたしは十二分にこの二本の映画を堪能した。そして、そのことをこのように語り得たことは、自分にとっても稀有な出来事だったと思っている。

 〈間〉を抜いてふたつの時間を重ね合わせることで見えてくることがある。たとえ、それがヤヌスの像のように、若さと老いが背中合わせにされるものであったとしても。

 アナ・トレントとの四十年をわたしは今抱きしめている。[了]

 

映画の季節

突然ながら、映画の季節が到来した。

もちろん、私にとっての、である。

何を観て何を感じたかは追々綴るとして、改めて私が震撼した映画監督をあれこれ思い出してみた。そして、その中から自然に私の中のトップ10が明らかになった。

言っておくが私は熱心な映画ファンではないし、そんなにたくさんの作品を見ているわけでもない。それでも、衝撃を受けた映画作品はもちろん沢山あり、中でも「監督」として畏敬するのは以下に挙げる人々である。

世の中のランキングとは相当に違うと思うが、そんなことは気にならない。とにかく敬愛の思いをこめて名を挙げたい(順不同)。

 

フェデリコ・フェリーニ

ヴィクトル・エリセ

タビアーニ兄弟

エミール・クストリッツァ

ジム・ジャームッシュ

ヴィム・ベンダース

小津安二郎

今村昌平

アンドレイ・タルコフスキー

クシシェトフ・キェシロフスキ

 

次点は

 

セドリック・クラピッシュ

ルイス・ブニュエル

テオ・アンゲロプロス

イングマル・ベルイマン

ルキノ・ヴィスコンティ

ジャン・ピエール・メルヴィル

 

あたりだろうか。

これらの監督は、10代に映画を見始めた今六十歳以上の人には馴染みが深いと思うが、

若い人たちだと映画好きでないとあまり知られていない人もいるかも知れない。

当たり前の話だが、いわゆるハリウツドの監督はひとりも入っていない。

一方で、フランスのヌーベルバーグの監督が抜けているのは自分でも驚きだった。

ヨーロッパの非中心的な国出身の作家が圧倒的に多い。

まあ、スペインを非中心とするのは怒られそうだが、

かつての覇権国家の成れの果てという意味を込めて。

 

今年の紅葉

 奈良に行って来た。

 紅葉が見ごろで美しい景色に何度も出会った。適度に混んではいるが、京都の狂乱にくらべれば、遥かに心地よく落ち着いて景色を楽しめる。写真は依水園で撮った一枚。紅葉は見事なのに小春日和で暖かい、最高な一日であった。

奈良依水園の紅葉

 

メディシスの泉

 リュクサンブール公園にある、メディシスの泉である。

 荷風も藤村も、この水辺のベンチに座ってパリに浸った。かくいう私も、休日になるとここに座ることが多かった。そして、本を読もうと思うのだが、鉄の椅子が冷たく、またすぐに尻が痛くなってさっさと退散していた。しかし、好きな場所であるのは確かである。

安達太良山

 見えているのは安達太良山二本松城天守のあった高台からの眺めである。

 見晴らしという点では実に素晴らしい城跡である。

 坂道を苦労して登って、本当に良かったと思える城跡はそう多くはないが、ここはその数少ない一例と言っていいだろう。また季節を変えて行きたいと思う。

二本松城からの眺め