八月

八月朔日(水)晴
早くも八月である。この前七月になって、今年も半分終わってしまったと驚いていたら、あっという間に八月になった。歳をとるとともに月日の経つのが加速度的に早く感じられるのは、おとなになると子どもの頃のようなときめきがなくなるからだとこの前チコちゃんでやっていたが、これには異論がある。要するに、一年でも一ヶ月でもいい、ある時間単位の相対的な大きさに由来すると考えたほうがいいと思うのだ。二歳の子にとって一年は人生の半分である。五十七歳のわたしの半分である28.5年分に相当するわけだから、それはそれなりに長く感じるのが当たり前であろう。57分の1の一年と、はたちの子の20分の1の一年では三倍近い違いがある。実感として、あの頃の一年は今の2〜3年くらいの、充実も事件もさまざまあった時間だったようにも思えるのである。もっとも就職して33年以上になるが、とても人生の半分以上の時間会社に属していたようには感じられない。せいぜい10年という感じである。とくに21世紀になってからのことは4〜5年の感じしかない。これは時間の逆遠近法とでも言うべき事態であり、近い数年ほど圧縮された感じがある。歳をとれば一年の相対的な量が減るのだから当然だろう。と同時に、年齢を重ねると、自分の生きて来た時間を示す、モノや財産や地位といったものが蓄積され、それに費やした時間がそこに凝縮されるのか、経過の記憶が希薄になるということもあるのではないだろうか。