闇の中の孤独

ある人が、こんな時期だからこそ被災地以外に住む人は外食すべきであると言ふ。外食産業が打撃を受けてをり、実際都内の飲食店は客が少ない状態が続いてゐるらしい。
しかし、それは東京の話である。計画停電の及ばない“聖域”に住む人たちの話である。神奈川では横浜の中心地に住む人間以外は計画停電の影響をまともに受けてゐるが、其処ではそんなことはないのである。今日嶺庵も夜の停電地域に入つてゐたので大船で夕食を取らうとしたのだが店は何処も満員の盛況で、やつと入つた店もご飯が切れてすぐに閉店となつたくらゐである。藤沢周辺の明りが消えてゐたから、食べ物を求めて隣町まで足を伸ばすか途中で降りる人も多いのであらう。下手な週末よりよほど人の出が多く、食ひつぱぐれぬやうに街をさまよふ人の群れは戦後間もない頃のやうな、ある種の活気さへ感じさせるものであつた。
神奈川県民の多く、それに東京都下や埼玉あたりに住む多くの人にとつて、此の計画停電といふ制度の運用に対する不公平感は強い。其れでゐて、一度でも夜の停電の、闇の深さと底冷えの寒さを経験してしまふと、其れ以上に悲惨な被災地の人たちを思ふ気持ちがいや増す分、声高に不平や抗議を言ひ出しにくくなるやうなところがある。
いろいろな人が様々なことを言ひ、伝へ、主張する。その度われわれは不安になつたり、怒りを感じたり、心配したり、同情したり、やりきれぬ思ひや焦燥感を抱く。それぞれの事の是非はすぐには分からないし、人の意見も何が正しいのか見極めがたい。生き抜くために、或る意味自分の本能に従ふ形で、その時々の判断が求められる日々が続くに違ひない。後になつてよく考へるためにも、今はとにかく思ふところを書き留めてをくことにしやう。わたしは今、夜の停電の闇を怖れながら暮らしてゐる。暗さが怖いのではない。真つ暗闇の中で際立つ自分の孤独に向き合ふのが恐ろしいのである。
明りが乏しかつた時代の、食後の家族の団欒の様子を何故か頻りに想像する。ほの暗い炉辺の暖かさを囲んで、一日の仕事を終へて安らぐ父親と、家族に食事をとらせ終つて同じくほつと一息つく母親が、赤い頬つぺの子どもたちに其の日の出来事や、村の言ひ伝へやしきたりを話して聞かせるやうな場面である。電気の通じた夜、とは今までの普通の生活の中では、独りでゐてもつひぞ寂しさなど感じることのなかつた自分が、闇の中にひとりでゐる所在無さの対極にあるそんな家族の情景を思ひ浮かべることで、自分の孤独の救ひがたい深さに気づかされたのかも知れない。