ゲームの法則

九月十五日(木)晴
東京ゲームシヨウが開幕した。と云つても全く興味はない。ゲーム自体に興味がないのである。わたしは、電車の中でいい大人が携帯電話や携帯のゲーム機をやつてゐるのを見ると馬鹿な奴としか思はないやうな、旧式の人間である。中学か高校生くらゐの頃世にインベーダーゲームなるものが登場し、周囲の人間は皆やつてゐたが、わたしは二三度やつてすぐにやめた。要するに下手ですぐに負けてしまふので面白くないのである。人より上手に出来ないものを楽しむことはできないのは誰も同じであらう。それ以来、テレビゲーム、コンピユーターゲームの類はまずやらない。ゲームセンターで遊んだことはあるが、何につけとにかく下手でお話にならない。ハンドルを握つてやる車のレースとか、拳銃を撃つて人を殺すゲームなども丸で駄目である。ローテクなピンボールスマートボールですら下手糞だつたのだから救ひやうがない。
ゲームである限り勝ち負けか、それに準じた達成度合がある。わたしは負けるのが嫌ひだからゲームをやらないか、元のゲームのルールをずらして自分が絶対に勝つものにしてしまふ。さうすると誰も相手をして呉れなくなるので結局やらないのと同じである。子供の頃将棋で負けた悔しさに暴れ回つた時に、負けて怒るくらゐなら勝負事はやめろと父に言はれたことの影響も大きい。負けて怒り、勝つと調子に乗つて有頂天を隠さうともしない、まあ最低の人間である。それが分かるから、ゲームにはなるべく触れない。
その一方で、かうした頑なさの背後で、世に出回るゲームから遠ざかり続けられるかどうかを競ふといふ、わたしだけが参加するゲームをし続けてゐるやうな気もするのである。天気であれ次に出会ふ人の服装であれ、何もかもが賭け事の対象になるやうに、ルールとプレーヤーさへ決めてしまへば本当はあらゆることをゲームにすることが出来るし、資本主義経済といふものが凡そゲームそのものによつて成り立つてゐるやうにも思へるのだ。