千夜七百冊と五十七仏

松岡先生の「千夜千冊」の通読、七百夜に到達。取り上げられた本の二割を所有、十三パーセントを読了してゐる。ところで、この千夜千冊といふ企ては、多くの本の中から良いものだけを選りすぐつた、言つてみればセレクトショップのやうなもので、松岡先生はこれとは正反対の「網羅」とか「尽し」の方により深い興味や思ひ入れがありさうである。『全宇宙誌』や『アートジャパネスク』『日本の組織』や『情報の歴史』といつた業績が何よりも其を物語つてゐる。博物学や百科全書に通じる好みである。

ボルヘスのバベルの図書館や、あらゆる人間の生前の言動が記されてゐるといふイスラム教の天上にある『イッリーユーン』と『シッジーン』と呼ばれる二冊の書物もさうした好みの延長線上に在るだらう。此の世の全ての事象、森羅万象、過去未来について余すところなく文字で綴られた書物と云ふものの存在と、それを収める図書館への希求、憧憬である。わたしにもかうしたものに対する憧れが昔からあつて、『群書類従』や『国史大系』『国書総目録』『国歌大観』といつたものは、其の名を聞いただけで、何やら心の内にささめくものを感じて来た。それらを所蔵し、日々閲覧して余念のない生活を夢見るのである。有職故実に対する関心も是に近い。

さうした中で最高に魅力的なものがトマス・アクィナスの『神学大全』であらう。アクィナスといふ耳慣れぬ微妙な発音とともに「大全」といふ壮大な企図と「神学」といふ何やら深遠なものとが結びついて、それさへ読めばこの世の謎のすべてが理解できるやうな期待を抱かせるものがあつた。中学の時にこの書の存在を知つたわたしはこの魅力的なタイトルに幻惑されたものである。影響を受けやすいわたしは、当時夢中だった西部劇について自ら「大全」を作ることを決意し、それなりに高いバインダー式のフアイルノートを購入して、全西部劇映画の詳細を記録しはじめたのだが、当然のことながら途中で挫折。其れが原因ではないだらうが其の後はむしろ体系的な哲学が嫌ひになり、結局アフォリズムに関心が移つたのは皮肉と言へば皮肉である。

同じ「網羅」的なものであつても、日本の「尽し」は、職人尽しにしろ枕草子にしろ、そこに極めて周到に計算された審美的な取捨選択があつて洗練を競ひ、かつ並べ方や組合せが絶妙だから、気宇壮大だが網羅に伴ふ粗漏も免れ得ぬ「大系」や「大全」とは区別すべきものかも知れぬ。大全には強固な意志が見え隠れし、尽しには風雅な趣向が添へられてゐると言へばわかりやすいであらうか。

此の尽しとも大全とも多少毛色は違ふが、永平寺日課経典の中に「大和尚」尽しとでも言ふべき「五十七仏」がある。これは釈迦牟尼佛や阿難陀などの十大弟子菩提達磨、其の後の法嗣の禅師たちを網羅して名を唱へるもので、最後は道元の師、天童如浄で終る。各々の名の後に全て「大和尚」を付け朝の諷経(ふぎん)の際に独特のリズムで「摩訶迦葉大和尚」「バリシバ大和尚」と次々連呼していくわけである。インド名を音写した漢字の読みと、途中から中国名を漢音で読んだ読みが加はり、これが何とも耳にも喉にも心地よいのである。「大和尚」といふ言ひ方が親しみを感じさせることもあるが、永平寺に居る時わたしはこれが一番好きだった。今でも嶺庵で朝よくこの五十七仏を唱へる。テレビでよく見る人には次第に好感を持つやうになるとのことだが、テレビのない時代にはこの「名を唱へる」ことが、先師に親しむ最適な方法だつたのであらう。