骨董市

十一月七日(日)晴
昨夜日本シリーズ第六戦を延長戦となつてからラヂオにて聴き始め、終に延長十五回にて引分になるまで眠れず。中日の拙攻目を覆ふばかりなり。是では勝つ事難からむ。従つて今朝はやや寝坊す。
午前中冬物の洗濯などする内直に昼になり、昼食の後外は暖かさうなれば藤沢にある家から車で十五分程の時宗総本山清浄光寺、通称遊行寺に赴く。偶々ネツトで第一日曜に遊行寺境内にて骨董市の開かれるを知り、近くでもあり出掛けてみる気になつたのである。

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遊行寺山門と境内骨董市】

五月に京都東寺のがらくた市に行つて其の楽しさを知るも、東寺のものは出店数が多すぎて目移りするのと、目を付けたものを後でもう一度見に行かうとしても見つからなかつたり、結構疲れるのであるが、遊行寺くらゐなら店も物も数が少なく、目ぼしいものもたいしてないから一寸覗くには丁度いいかも知れない。探すのは大抵の場合家元として花瓶か嶺庵の飾りになるものである。今日は最初に割りに良いなと思つて手にした花瓶が千円であつたので、其れからはいくら良く見えても四千円だつたりすると買ふ気にならない。さう広くない本堂前の敷地に二十数軒の出店があるが、洋物の骨董や民芸調、腕時計や写真機等には目もくれないないからものの十五分もあればざつと目を通せてしまふ。ところが、骨董市といふ名から予期してゐなかつたのだが、二軒程盆栽を出してゐる。見ると悪くない松が並んでゐる。いくら位するものなのか興味があつたので、中で一番余の好みに合ふ松の値段を問ふと四千円だと云ふ。手が出せない値段ではない。序に色々聞くと、五葉松といふ松で樹形は「文人」と呼ばれるものだと言ふ。是でまあ、決まつたやうなものである。何も知らずに自分の好みで選んだら其れが文人といふのなら、買ふしかない。八十過ぎらしい店主は頻りに買得であると言ひ、鉢の銘を見せて此れだけでも四五千円の値打ちはあると言ふ。確かにさうだとは思ふものの決めかねて、まずは最初の花瓶に戻り購入。店主は是はもしかしたら数万のものかも知れないなどといふので笑つてしまふ。家元が良いと思つて選んだものであるからには数万とか数百万とかさういふ値段ではない、値のつけやうのない特別のものになることをご存じないやうだ。千円払つて紙袋に入れて貰つて盆栽屋に戻る。是もまた何かの縁と思ひ購入し、鉢を抱へて駐車場に戻る。助手席の足元に置いて極めて安全運転にて帰宅。早速嶺庵に据える。悪くない。思はず二尺三寸管を取出して「松風」を吹く。颯颯たる松嶺を思ひながら。

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文人五葉松、銘「遊行」と花瓶、銘「浄壺」】

飄眇亭通信の読者であれば知つてゐる事であらうが、昨年林檎を切つたり齧つたりする時の擬音語「さくさく」から始まつて、策策と書いて松籟を形容する語であることを知ったり、五浦の海岸の松を賞玩したり、或いは長谷川等伯の「松林図」に感動したりと、ここ数年何かと松に親しんできた。そして、梅もまた昨年梅の詩歌についての原稿を書いたり応挙の「雪梅図」に震撼するといふ出来事があつた。さらに、日々手にする尺八は文字通り「竹」であり、京都寺町通りの「バンテラ」(バンブー・イン・テラマチの略)といふ竹細工の店では随分と竹製品を購入した。要するに「松竹梅」に囲まれてゐるのである。此の事に今年の半ば位に気づいて以来、日本人の培つてきた伝統的な趣味や美意識といつたものと自分の好みがすつかり同化してしまつたことを理解し、月並なものへの回帰を果したやうな気になつてゐる。花鳥風月、松竹梅、月に芒といふ具合である。突飛なものや余りに先鋭の意匠よりも、月並なものの中にある彩や濃淡、微妙な差異を喜ぶ心持と言ひ換へてもいい。菫山老人正に老境に入りたる気分である。