一億円の憂鬱

昨夜の事。定時退社後駅前で食品の買物をして綺麗な三日月を見ながら家に戻る。尺八を吹いてしめじの味噌汁を作り買つて来た金平牛蒡と倶に夕食をとつたまでは良かつたのである。それが、其の後文机やホツトカーペツト等を購入するため嶺庵の寸法を測つたり、ネツトで注文したりするうち欲しいものがどんどん増え、調子に乗つてあれこれ買ひ過ぎた挙句に寝るのが十二時近くになつてしまつた。しかも、一度は寝入つたものの一時半に目が覚めると眠れなくなつてしまつた。狭い家の事、何かを買へば今ある物を捨てるか他所に置かねばならない。其の算段をするうち、いつしか宝くじで三億円当たつたらどのやうに使ふかを考へ出し、ある程度納得の行く使ひ道を決められたのに、悪いことに今買つてあるくじが最高でも一億円だといふことに気づき、もう一度其の一億をどうするか考へ直すことになつてしまつた。これが中々大変なのである。一端三億で組んでしまつた夢を三分の一でやろうとすると色々無理が生じてにつちもさつちも行かなくなり、生活がギリギリになつてしまふやうな錯覚を覚える。馬鹿な話だが、そんなに苦しい生活をするくらゐなら一億円など当たらない方がいいやうにさへ思へて来るのである。落語のやうな話であらう。挙句に出した結論は、一億円一度に貰ふよりは、この先十年に渡つて毎年年収が一千万ずつ増えた方が遥かに楽しい生活を送れさうだといふことであつた。貧乏に生れついた者は俄かに大金など持たぬに越したことはないのである。さう思つて明け方何とか寝入ることができたが、今日ネツトを見てゐたらカナダの老夫婦が宝くじで当てた九億円のほとんどを寄付したといふニユースを見つけた。老夫婦曰く「健康も幸せもお金では買へない」。其の通りなのだが、九億円である…。わたしであれば、まず会社を辞めて使ひ道を考へるだらうと思ふ。眠れなくなるに決まつてゐるので取り敢へず出社を諦めるより他ないからである。