上京前

風邪がやつと治り、昨日今日と今週末の京都旅行の計画に忙しい。三月にも行く予定があるので、ついでにそちらも併せて、ガイドブツクやネツト、時刻表など調べながらの「旅行計画」である。「冬の京都」の特別公開寺院を中心に廻るのだが、効率よく見て廻るコースを考へ、其の途上が知つてゐる場所なら周囲の情景を想ひ描き、見知らぬ土地ならどんな処か想像するのが楽しい。わたしは出来るだけ詳細に旅のプランを立てる方で、其の上で場合によつては其の場の気分でさつと変更してしまふこともある。詳細にコースを練る中でシミユレーシヨンしてあるからこそ、臨機に変へてゆけるのである。だから、わたしは「さうだ、京都に行かう」などといふ気持ちで出掛けたことは一度もない。行きたくて行きたくて、なかなか行けなくて、やつと行けるのだから、そんな呑気な事は言へないのである。
京都に行くと落ち着く。ほつとすると同時にうきうきする。日本人に生まれて本当に良かつたと思ふ。こんな町で生まれ育つたらどんな人生になつてゐたのだらうと想像する。見るものすべてが洗練されたものに思へる。そして財布の紐が緩む。いつもの倹約ぶりとはうつて変はつてたいてい散財してしまふのだが、京都で買つたものはいつまでも大事なものであり続ける。それが結果的に悲しい過去の思ひ出につながるとしても。
わたしは今、季節はずれの扇子を手にあの夏のことを思ひ出してゐる。とてつもなく暑かつた2004年の夏の京都…。いろいろな思ひ出が詰まつてゐても、それでもまた行きたくなるのが京都なのだらう。ひとりで廻る京都にもだいぶ慣れたやうである。