佛教滅亡

保坂俊司著『インド仏教はなぜ亡んだのか』読了。インドに於いて佛教が滅んだ経緯をイスラム側の史料をもとに、比較文明論の手法と用語を使つて考察したもので、示唆に富む一冊である。今までの一般的な理解としては、イスラム教徒のインド侵略による佛教寺院の破壊によつて佛教は衰退し、其れを契機として信徒や教義がヒンドウー化することにより消滅したといふことになつてゐるが、著者はもう少し複雑でダイナミツクな宗教文明の衰亡を其処に見る。
まず、佛教がインド社会で占めてゐた反ヒンドウー教といふ位置づけに注目する。ヒンドウーの差別主義に対する佛教の平等主義であり、各々の宗教を奉ずる民族や社会階層、経済基盤の違ひである。すなわち、イスラム侵入以前の佛教とヒンドウー教は、さうした対立構図を持ちながらもインド社会に於いて宗教的なバランスを保ち得てゐたのだが、イスラム教徒の侵入に因り其の対立の構図は崩れ、新たにイスラム対ヒンドウーへと変化する。其の結果、佛教に帰依してゐた周辺の諸民族を含む都市部の商工民である人々にとつて、反ヒンドウー・反バラモン主義・反カーストといふ点でイスラム教と佛教は通ずるものがあつたのではないかと著者は見る。其の一方でイスラム教に対抗すべくヒンドウー・ナショナリズムが勃興することにより、佛教もヒンドウーにとつて排斥の対象となる。さうして佛教の勢力が急速に衰へてゆく原因の一端に、佛教からイスラムに改宗する動きがあつたのではないかといふのが著者の仮説である。
イスラム勢力の侵入といふ脅威を前にして、ヒンドウー勢力に与するよりは、同じ反ヒンドウーのイスラム教に改宗する方が受け入れやすいと考へた社会層が存在したと考へるわけである。救済の手立てや教義の違ひよりも、自分たちの生命や社会的地位を優先しなければならない状況の中で、少しでも心理的抵抗の少ない方に向ふのは自然な趨勢であつたのかも知れない。実際佛教からヒンドウー教に改宗した場合には賎民視されるのに対し、信仰を同じくする者の平等を説くイスラム教の方が、佛教の平等主義の下に生きた人々には許容できるものであつたであらうことは想像に難くない。商業が発達し貿易の拠点として国際交流の盛んな、インド全体から見れば東西の辺境に位置するさうした佛教の栄えた地域こそ、今まさにイスラム教の圏内にあることは紛れもない事実だからである。
イスラム教徒が佛教を破壊し仏教徒を絶滅させた訳ではなく(勿論さういふことが全く無かつた訳ではないが)、言つてみればイスラムvs.ヒンドウーという対立の大きな波の中に佛教は呑み込まれてしまつたといふことであらう。
実に興味深い指摘であり、佛教の社会思想史的な理解や、文明や社会と宗教との関はりを考へる上でも数々の示唆を与へる視点である。著者によれば、そもそも何故インドで佛教が滅んだのかを真正面からテーマにした本自体が今まで此の世にないとのことなので、此の著作はあくまで僅かな史料をもとにした仮説の段階に等しいのは確かだとしても、インドの歴史や社会の変化の中で佛教が辿つた衰亡の実情を知ることは、例へば大乗佛教の成立と伝播の背景を理解する為に重要なものになることは間違ひないから、今後の研究の進展を期待したいところである。わたし自身もこの本を読むことによつて、大乗佛教を批判するにしてもインドの社会史や思想史の中での佛教の変容を理解しない限り安易に批判できるものではないことを思ひ知らされた。歴史的事実としての佛教の変容と、自らが帰依すべき佛法とは区別すべきものだつたのである。発見の多い読書であつた。
其の論ずるところは面白いにしても、著者の文章はこなれたものとは言へず、驚くほど誤字が多い。こんな事は書きたくはないのだが、出版元の北樹出版の編集者が杜撰な仕事をしてゐるとしか言ひやうがない。「誤→正」の順に例を挙げると「複線→伏線」「復習→復讐」「インド会社→インド社会」「付いた→着いた」など枚挙に暇がない。単純な校正漏れと言はれても仕方があるまい。タイトルのフオントもセンスがないがそれはいいとして、句読点の場所も変なものが多い。「そのような、意味で仏教がインド社会において」の類で、編集者の校正の手抜きとしか言ひやうがない。もつとも、次に引くやうな、冗長といふか、論理の練れてゐないわかりにくい文章も多い。

つまり、この地域の仏教は必ずしも民衆から遊離していたのではない、ということがいえるのである。というよりむしろ仏教は人々によって支援されて、十分に社会的に機能していた、といえるのである。むしろ、仏教は従来の認識に反して、現世における利害関係と密接に結びついた存在であった、ということができよう(中略)。
つまり、この地域において仏教は、ヒンドゥー教およびその正統派の権力に対して、対抗する勢力として十分な役割を果たしていた、ということである。
したがって、それゆえにかえって、政治や経済というような利害関係のない駆け引きや打算が、改宗という社会的な立場の変更を導き出す有力な要因となる、ということになる。つまり、…以下略

といふやうな調子で、これは多分に著者自身の問題であらう。せつかく優れた研究をしてゐながら、此の文章では戴けない。著者の今後の研究に期待すればこそ、敢て苦言を呈して置く。