出家の覚悟

一月二十日(木) 風邪で熱を出し会社を休む。喉が痛み、からだの節々に軋むやうな痛みがある。朝近くの医者に行つて薬を貰ひ、お粥を作つて昼夜食べる。
昨日、届いたばかりの『出家の覚悟』 (サンガ)を一気に読み終へる。之はスマナサーラ師と曹洞宗の南直哉といふ僧の対談を収めた本で、テーラワーダ道元は今のわたしにとつて最も信頼できる佛教の形であるから、興味を持つたのである。結果はと言へば、スマナサーラ師の完全勝利と言つていいだらう。南師が文字通り「小僧」にしか見えない。基本的に南師が疑問や質問をぶつけて其れにスマナサーラ師が答へ、合間に南師がスマナサーラ師にといふよりは読者に向けて持論を述べるといふ形で、悟りの階梯に関するところなど完全に修行僧が老師に問ふやうな形になつてゐる。揺るぎのないスマナサーラ師の答へや佛陀の説いた事への深い理解と帰依は、僧とは正に斯くあるべきだと思はれるものであつた。
南師は歳もわたしより少し上で、早稲田の文学部を出てサラリーマン勤務をした後出家して永平寺で二十年修行したといふから、其れだけでも親しみと敬意を感じる。家がお寺でないこともあり、其の考へ方は普通の僧侶より遥かにものが見えてゐると思ふし、日本の佛教の現状への批判や、社会に対する発言には共感を呼ぶものが少なくない。其れでも、こと佛教に関しては完全にノツクアウトといふ感じだ。日本の佛教の中でわたしには最も佛陀に近いと思へた道元の禅の、本流である永平寺の、其の中でも明らかに宗門や世襲の悪弊に染まつてゐないと思はれる南師にして、テーラワーダの長老を前にすると佛法の理解からして未だしの感がある。
永平寺で四日間程度の坐禅修行で音を上げたわたしが言ふことでもないのだが、永平寺にあるあの質素で美しい修行だけではだめだといふ思ひがある。青木保はタイのテーラワーダ佛教寺院で出家したが、期間は半年に過ぎない。野々村馨といふ、やはり曹洞宗と何の関わりもない人が突然出家して一年永平寺で修行をした記録『食う寝る坐る―永平寺修行記』といふ本を読んだことがあるが、其れだけでも大変だと思つたのに、南師は二十年である。今の世に珍しい程の「覚悟の出家」であらう。其の南師にして、スマナサーラ師の前では小僧に過ぎない。どちらに就くべきかは明らかであらう。