テーラワーダ佛教

往き返りの電車の中で読んでゐた青木保著の『タイの僧院にて』を読了。名著として名高い本だが、タイの上座部佛教での読經の様子が知れるのではないかといふ期待もあつて初めて読んだ。明確には書いてゐないけれど、すべての読經を佛像を前にしてするわけではないやうな印象を受けた。ただ、其れ以上に筆者のテーラワーダ佛教僧院での修行体験の様子や其の中で出会ふ僧侶や出来事が興味深かった、と言ふより大いに考へさせられた。筆者が其の体験の中で思つたり考へた事に共感することが多かつたし、また其処から佛陀の教への一端を少しは垣間見られたやうにさへ思ふ。そして、青木保といふ人が信用に足る人類学者である事は十分にわかつた。同氏の『儀礼の象徴性』も二十年来書棚の片隅に置いたまま読んでゐないが、今度読んでみやうと思ふ。
佛像の誕生と其れへの崇拝や読經は、やはり佛陀の教へからの逸脱としか思へないし、ましてや大乗佛教はだう考へても本来の佛教とは別物の要素を多く含み過ぎてゐる。佛塔の出現にもかなり不穏なものを感じるけれど、色々知れば知る程、佛像の出現と大乗佛教の成立こそが佛教の変質に決定的だつたのではないかといふ思ひが強くなつてゐる。そして、わたしにはどこか、それら以前の、佛陀其の人の教へに戻りたいといふ気持ちがある。
そのせゐもあつてやはり上座部の佛教への興味が強まつてゐるのも事実である。テーラワーダとて佛陀の教へ其のものではなく、タイの土着の宗教観念を含み持ち、また固有の問題や胡散臭さはあるとは思ふが、もしかするとわたしの性向には合つてゐるやうな気もしなくはない。さうするとサンスクリツトよりパーリ語を勉強しなくてはならないことになるが、さてだうしたものか。
道元や禅に於ける非大乗的な部分の探求についてもいずれはしてゆきたいと思ふが、今はちよつと部派佛教の律にも関心があつて、所謂「小乗」佛教について勉強したい気持ちが強いのである。