宗教経済学

息抜きに読み始めた『寺社勢力の中世』(伊藤正敏ちくま新書)が面白い。教科書的な日本史では文化や思想或いは政治との絡みでしか出てこない中世の比叡山興福寺高野山といつた寺社すなわち宗教勢力の実力の程を、其の経済的な側面を踏まえて説き明かしてゆく。「日本史の常識」の嘘を暴くといふ点で、井沢元彦的な多少挑戦的で上から物申すやうな文体は若干気にならないではないが、方法論は豊富に残された寺社史料の読解であり、それなりの説得力はある。
大寺院の経済力と朝廷や幕府に劣らぬ領地支配と兵力の実態は凄まじいもので、信長の強硬な対佛教政策や秀吉による武力解除を経た江戸時代になつても、其の徹底的な宗門統制にも関らず高野山は十万石級の大名と同列で将軍に謁したといふから驚く。
尤も著者は寺社勢力の宗教から逸脱した俗権や強欲を糾弾してゐる訳ではなく、律令制の有名無実化と荘園の伸張による国家のまともな租税制度の崩壊や、其の言ひ換へに過ぎない摂関家を中心とした一部の層による富の簒奪の結果社会から落伍せざるを得なかつた流民を受け入れる「無縁所」としての意味も寺社勢力に見てゐる。われわれは江戸期以降、或いは明治以降の佛教宗派の在り方を元に中世の寺社勢力を見てゐるから、其の経済力や武力を何か宗教に相応しくないものと見做しがちだが、中世に於いては社会の矛盾が寺社をそのやうな存在たらしめてゐた一面はあるのである。此の時代に進展する「本覚思想」にしても、かうした寺社勢力の社会の中での実力といふか、存在感の大きさの認識なくしては理解が一方的なものになるのではないかと思ふ。
ところで、之を読みながら「宗教経済学」とでもいふべき学問領域はあるのか興味を持つた。あらゆる宗教の集金システムの比較や教団存続のための経済的活動の位置づけや価値の変遷など知りたいと思ふし、其れらを成り立たせてゐる論理や倫理など宗教の本質の一面であらう。また、世俗権力との関り方の変遷、或いは税制との相互依存関係なども通史的に辿れば面白さうである。ちよつと考へてみてもイスラム教の利息禁止やユダヤ教プロテスタントと資本主義の結びつき、佛教の布施の思想などを思ひつくから、宗教ごとに違ひも大きい筈で、或る意味歴史的に隠されて来た部分だけに、其の解明は困難を伴ふかも知れないが興味の尽きぬテーマではないだらうか。早速ネツトで検索してみると学問として「宗教経済学」といふ名のものはないやうである。寧ろ経済史の範囲の中にそもそも宗教教団の在り方も入つてゐるのかも知れない。
検索の中で妙なものに出会ふ。「数理神学」といふもので、同志社大学の落合仁司といふ人が、神や仏を無限集合と捉へると其処から何が帰結するかを探求してゐるさうで、わたしには全く雲を摑むやうな話だが、宗教と数学に同一の構造を見出さうとする其の発想は面白いと思ふ。それ以外では保坂俊司光文社新書の『宗教の経済思想』があつて、各宗教の経済倫理を扱つたもののやうでわたしの興味とは若干ずれるが読む気になつて注文した。著者はわたしが受講を検討してゐる東方学院の講師もしてゐて、『国家と宗教』や『インド仏教はなぜ亡んだのか』などの著作もあり、前から読んでみたいと思つてゐたのである。