南師のこと

赤坂の豊川稲荷で開かれた「仏教・私流」といふ催しに参加。講ずるのは南直哉(じきさい)師、曹洞宗の僧侶である。其の名を知つたのはスマナサーラ師との対談『出家の覚悟』を読んでからだが、其の時の印象ははつきり言つてスマナサーラ師の引き立て役くらゐにしか思へなかった。ところが、師の著作である『日常生活の中の禅』を読んで其の印象は全く改められた。題名から思ひ描くのと異なり、其の内容は極めて精密な議論を尽くした佛陀と道元の入門書とでもいふべきもので、わたしは此れで少し佛教がわかりかけて来たやうに思ふ。中途半端に西洋哲学に足を突つ込みながら結局其処から何ものも得られなかつたわたしのやうな人間にとつて、師の問題意識の設定と語り口は共感と理解の両方をもたらす類のものであり、乾いたスポンジに水が染込むやうに「ことの次第」が把握できたのである。少なくとも佛教が自明であり所与であるかのやうに始まる多くの僧侶の書と異なり、其処には探求の果てに辿り着いた佛教といふスタンスが明確に見てとれ、其の過程を追体験することで佛教の真の姿が理解できるやうな仕組みになつてゐて、わかりやすいのである。其の内容についてはいずれ纏めてみたいと思ふが、とにかく師の著作を続けて読む気にもなり、月に一度此の催しのあることを知つて駈け付けた次第である。
広い和室に五十人は居たであらう。十五分前に着いたにも関はらずほぼ満席であり、しかも定刻になる前から雑談と称して南師は話し始めた。写真で見る通りの姿かたちだが、思つたより長身である。また、予想通りといふべきか声は比較的高めで故意に重々しい喋り方を避けてゐるやうな様子があり軽い口調である。わたしは毛氈の上に端座し背筋を伸ばして真直ぐに師に相対して話を聞いた。
本来は仏教史を語るシリーズらしいが、インド、中国と終へて、今は日本篇を始める前の番外篇とのことで、まずはツイツターに象徴される現代の状況が社会を根本から変へる可能性の話から入つた。今すでに起こりつつあり、そしてまた此の先に訪れるであらう社会の変動は、佛陀の現れた時代、道元の生きた鎌倉時代初期と同じくらゐ劇的なものだと言ふ。其のやうな激動期には其れまで各人が帰属してゐた家なり会社なり社会なりの定める役割や存在意義が揺らぎ、剥き出しの実存として自分の位置・意味を見出さねばならなくなる。さうして求められるものこそ「個人」といふものなのであり、其の個人を無事に固定させるものとして普遍的宗教、特に超越者絶対者を置くキリスト教浄土教が必要とされるであらうこと。ただ、絶対者の言葉を媒介するのが人間である限りは、神の名を借りた人為を絶対と見誤る可能性がないではないこと、其れに対し佛教は個人を定着させる拠り所を与へるといふよりは其の根拠の不確かさに目を向けることを説くに等しいから、安易な回答を現代の人々に与へられぬといふジレンマを抱へてゐることなどを語つた。
生産から余剰、過剰を経て貨幣の誕生に至る、モデル化された人類の経済史や貨幣論を南師から聞くことにならうとは思はなかつたし、現代社会の分析や時代動向の認識を示すとは意外であつた。また、自らの存在意義を黙つてゐても指し示してくれるやうな安定した帰属先・共同体を失つた現代の我々、即ち剥き出しの実存にとつては、神と貨幣と死がほぼ等しいものとして現れるのだといふ説明は、何となく西洋現代思想の影響を感じさせるが、最後に少しだけ触れた佛教の立場については、正にわたし自身が最近の佛教系の読書の中で感じてゐる事に近く共感できるものであつた。
師は永平寺で二十年近く修行を積み、幾多の著作をものし、剰へわたしに消し難い強烈な印象を残した恐山の院代も務めてゐる。其れだけでも畏敬の念に堪へないが、実際に見てみると、ゴリゴリの求道者といふ感じではない。ただ、佛教学者とは一線を画しながら、現代思想のやうに佛教を語れる現在の日本佛教界では珍しい存在だと思ふ。本来一生修行できるものと思つて永平寺に入つたものの、現実には僧侶として世間と関はる以外の行き方(生き方、ではない)は不可能であることを悟つて住職にもなり、かうして様々な活動をするやうになつたものであらう。
もつとも、著作からわたしは勝手に持戒堅固の人かと思つてゐたが、実際には妻帯してゐるのだといふ。わたしとしては其の点が少し残念である。まさか飲酒はしてゐないと思ふが、奥さんが恐山の院主の娘とのことだから、宗門の力関係の中に取り込まれてゐるのは確かなやうである。まあ、「世襲」坊主の世界の中では、志が高ければ高い程少数派たらざるを得ないのであらう。わたしが伝統教団に足を踏み入れることを躊躇ふ一因もその辺に在る。ただし、わたしの志が高いといふわけではない。中途半端だから簡単に呑み込まれてしまふのを怖れるのである。
ちなみに、師のブログ「恐山あれこれ日記」も面白く、著作も含めしばらくは南師に注目してみやうと思ふ。「仏教・私流」は月一回同じ場所で開いてゐるやうだ。