無明の憂鬱

憂鬱である。突然何もかもが面白くなく、何もする気がなくなつてしまつた。脱力と憂鬱と落胆を混ぜ合はせ、其処に悲哀を振りかけたやうな水つぽい味気なさである。
杉花粉による目の痒みや鼻腔の不快感がトリガーになつてはゐるだらうが、それだけが原因ではない。ひとつには、仏法に触れながら解脱の道の遠いことを感じ、修行や仏典読解に対する懈怠の心が生じ始めたせゐもあるかも知れない。空を観じたわけでも縁起を窮めたわけでもないのに「空の空しさ、縁起の悪さ」にやられたのである。
もうひとつは、煩悩の消滅に伴ふつまらなさといふことがある。淫欲を克服してみると、わたしにはそもそも女性に対する興味がなかつたのではないかと思へるほど、異性に対してつまらない思ひで一杯なのだ。欲望の炎によつてぎらぎらと見つめてきた対象が、火が消えたとたん闇の中に沈んだのである。
諸悪からも、酒や女からも、ギャンブルはもちろんゴルフや観劇といつた娯楽からも遠ざかることで達したこのつまらなさ。他人を羨む気持ちも、自分を他人と比較したり、人の評価を気にすることもなくなつてみると、なるほど気持ちは静かになるが、生きる張り合ひも失はれる。一切皆苦とはこのことであつたかと思ふ。
最近やたらと甘いものが食べたくなるのは、此の苦しみから逃れるための一時凌ぎの逃避行動かも知れぬ。無意識のうちに甘−苦の二項対立の中にゐるとしたら、其れこそ無明であらう。煩悩は減じても智慧や悟りにはほど遠いのである。
何もする気になれないから戒も守れるだけで、発心や発菩提心からではないのかも知れぬ。情けないことこの上ない。くさくさして思ひきりくだらないことに散財する衝動に駆られる。どうせ生きてゐること自体がくだらないのだから、意味のあることに金を使ふといふことはあり得ぬのではないか。いや、やはり布施や供養は大切か。しかし、布施をすべき高徳の僧侶に未だ出会はない。
わたしは充実とか幸福にもすぐ厭きてしまふ質なのである。諸行無常諸法無我ではなく、わたしの場合自我無常である。それなら悟つてもよささうなものだが。