渋谷の変貌

三月八日(木)陰
ネツトにて渋谷駅周辺のツインタワー建設を含む大規模な再開発計画を知る。銀座線のプラツトフオーム位置変更や東横線の駅地下化は其の前に実現するさうだが、いずれにせよ景観が変貌するのは間違ひあるまい。京王線沿線に住んでゐた余にとりて、渋谷は新宿と並んで一番身近な盛り場であつた。幼少の頃には母方の実家のある古川橋に行くのに渋谷から都電に乗つてゐた。まあ、戦後のあの辺りの変遷は目の当りにして来たと言つても過言ではあるまい。学生の頃は買物や飲み喰ひで毎日のやうに行き来してゐたやうな気がする。よく足を運んだのはパルコや西武、丸井、109、それに映画館の数々。東急文化会館三省堂道玄坂手前の旭屋書店にもよく行つたし、ジヤンジヤンもあつたが、皆今はもうない。思ひ返せば隔世の感を禁じ得ない。松濤公園や浪人時代によく行つた國學院の手前にある区立図書館なども懐かしく思ひ出される。
若者の街、ファツシヨンの街と言はれながら、闇市時代の猥雑さも残るゴタゴタした繁華街といふ印象が強い。最近では交通のターミナルとして使ふのみで特別の用でもない限り街を歩くこともないが、再開発で小奇麗で近代的な、のつぺりとした何処にでもありさうな街に変はるのであらう。街並として魅力を感じてゐた訳でもないのに、一抹の淋しさは覚える。若かりし頃に見知つた景観が消えてなくなることの寂しさであらうか。完成する頃には余は既に定年を迎へて今以上に渋谷を歩くことなどなくなるのであらうが、かうした計画を耳にして余が今思ふ事は、荷風散人の断腸亭日乗における東京といふ都市の変貌に関する述懐に通ずるものがあるであらうか。菫山老人、いよいよ老境に入つて来たやうである。
ちなみに渋谷を始発とする井の頭線を走らせてゐる会社を今は京王電鉄といふが昔は京王帝都電鉄と言つた。此方の方が格好いいと思ふのだが、此れは戦争中に政府の指導で小田急や京王が東急の傘下に大合同したものが戦後になつて分社化した際に、旧京王電鉄と旧帝都電鉄の分を併せて設立された為にかうなつたのである。帝都電鉄は即ち今の井の頭線で、本来は山手線の西側に大環状路線を築く予定であつたものの、結局渋谷吉祥寺間のみの建設に終つたといふのが経緯である。地下鉄を除けば都心から放射状に延びることの多い私鉄網の中にあつて、志は帝都の名に恥じぬものがあつたのである。帝都電鉄の此の壮大な構想がなければ、吉祥寺が今のやうな「住みたい町」になつてゐたかどうか大いに怪しい。少なくとも、中途半端ではあるが渋谷から吉祥寺といふ「斜め」を通ることが、井の頭線のブランド力を高めてゐるのは間違ひないと思ふ。
企業合併の際最初は両方の名を残しながらいつの間にか大きい方の名前だけになるといふのはよくある事であらう。日産プリンスからプリンスが消えたやうに、香料業界でもジボダンとルールが合併してジボダン・ルールだつたのに、知らぬ間に単にジボダンになつてゐた。もつともルールにしたところで、元を正せばルール・ベルトラン・デユポンといふ三社合併の社名がいつの間にかルールになつてゐた訳だから文句も言へまい。栄枯盛衰は世の常とは言へ、「帝都」の名は残して欲しかつた気もする。「帝国」や「帝国主義」を思ひ出させるので忌避したのかも知れぬが、渋谷の再開発で魔都や帝都の面影がますます失はれることに淋しさを覚える元京王鉄道友の会会員としては、京王帝都の名が懐かしいのである。