如道会設立年に関する疑義

三月十日(土)雨後陰
先日如道叢書のコピーを見つけ出したと書いたが、早速通読してみた。尺八の奥義について教へられる事が多いのはもちろん、如道先生の経歴や歴史的な背景に関しても知らずにゐた事が少なくなく、大いに参考になつた。ただ、如道会の設立年度についての若干の疑義を生じるに至つた。一般には如道会の設立は昭和十三年即ちグレゴリオ暦1938年といふことになつてゐる。O君のブログ『一聲吹落天辺月』にもさう記載がある。此れは如道叢書第二篇の中にある「如道会縁起」に収められた如道会趣意書の末尾に昭和十三年七月とあることに由来するのであらう。ところが、其の趣意書より前の本文で、設立の契機となつた安岡正篤らとの会食が昭和十四年になつてゐる。そもそも安岡らとの会食が昭和五年から始めた日比谷公園音楽堂での演奏を十年続けた記念で催されたとあるから、十三年では年数が足りない。むしろ年齢の「数へ」と同じやうに最初の昭和五年を一年目とすると十年目は昭和十四年になる。さうなると如道会設立も昭和十四年にならなくてはをかしい訳である。
この点を確かめやうと幾つかの資料に当つてみた。テイチクから出たCD集『古典本曲の集大成者 神如道の尺八』に付録された冊子の中に[神如道の音楽系譜]と題された一項があり、上参郷祐康氏と月渓恒子氏が如道叢書の重要な部分を再構成して掲載されてゐる。此れを見ると安岡らとの会食は昭和十三年とされてをり、趣意書の日付を正と取つて矛盾の生じる十四年を誤植と考へて直したのであらう。普通であればさうだろうと此処で納得するのかも知れない。ただ、如道会にとつて正に画期的な年を疑義があるのに見過ごしたくはないと思ひ、もう少し調べてみることにした。歴史の真相は意外な細部から明らかになることも少なくないと思つたのである。
そこでまず、趣意書に併記された如道会設立時の発起人に注目してみた。下記に其の名前と、如道叢書原文に「当時の官職」と記された肩書きを記してみる。

  • 今泉 定助 神宮奉斉会々長
  • 池田 清 警視総監
  • 津軽 義孝 伯爵
  • 吉田 茂 厚生大臣(後軍需大臣)  -如道会理事
  • 中御門 経恭 侯爵、仏教音楽協会々長
  • 野口 雄三郎 医学博士
  • 安岡 正篤 金鶏学院学監  -如道会理事
  • 香取 昌康 東京府知事
  • 有馬 良橘 明治神宮々司、海軍大将
  • 浅田 良逸 陸軍中将、男爵
  • 佐藤 尚武 外務大臣、現参議院議員  -如道会理事
  • 関屋 貞三郎 宮内次官
  • 松岡 均平 貴族院議員、男爵
  • 沼田 三郎 厚生大臣秘書官  -如道会幹事

錚々たる顔ぶれであり、個々の人物や如道先生とのつながりや人脈は今後明らかにしてゆくつもりだが、まず注目したのは当時の官職である。さつそくウイキペデイアで調べてみると、二人目の池田清で面白い事実が見つかつた。警視総監とあるのだが、其の職に任命されたのは昭和十四年のことで、十三年当時は大阪府知事として上方に在つたのである。
此処で「昭和十四年説」を支持する証拠が見つかつたやうにも取れるが話はさう簡単ではない。まず、昭和十四年に警視総監になつたと言つても辞令は九月五日であり、趣意書の日付には任地に居たはずである。いや、実を言へば池田に限らず当時の官職とあるものの、実際には昭和13-14年より前であつたり後であつたりする。例を挙げれば戦後総理大臣になつた吉田茂とは別人の同姓同名の吉田茂厚生大臣になつたのは後の昭和15年であるし、香坂昌康東京府知事だつたのは昭和7年から10年である。如道叢書が書かれたのが戦後の昭和27年頃であることを思へば記憶違ひもあるだらうし、全体に当時の官職といふより、本人にとつての極官(最も高い役職)を記した印象が強い。其れもあつて池田の事例だけでは「昭和十四年説」は採り難い。大阪に居ても名を連ねることは可能だらうし、野口雄三郎といふ人は恐らく別府の人のやうなので、東京に居なくても発起人であることに矛盾は生じないのかもしれない。
それでも納得が行かずに色々調べるうち、その辺の事情を知る便になるかも知れぬ面白いものに出喰はした。ひとつは、如道会報などにも名が出て、戦後も昭和四十年代まで如道会顧問をしてゐた佐藤尚武氏による『回顧八十年』といふ本の存在で、此れは横浜市の図書館が蔵してゐたので早速予約して取り寄せ中である。外交官、政治家としての回想であらうが、如道会についての記載がないとも限らない。
もうひとつは同じく発起人の一人関屋貞三郎氏の遺族が国立国会図書館憲政資料室に寄贈した一連の文書である。其の目録もネツト上で閲覧できるのだが、書簡の中には残念ながら如道先生からのものはなかつた。ただ、佐藤尚武、池田清、吉田茂安岡正篤始め発起人からの書簡は多数残されてをり、交友関係や彼らの思想動向を知る上には興味深いものとなつてゐる。しかし、それ以上に興味を引くのは日記の存在である。何と昭和十三年も十四年の分も残されてゐるのである。もちろん内務官僚の日記であるから公務が中心であらうが、如道会について何らかの記述のあることは十分考へられることである。もつとも、憲政資料室の資料閲覧は簡単には出来ないやうで、日曜日が休みであることもあつてまだ閲覧の予定は立ててゐないが、記載があれば如道会設立年に関する疑義が氷解するのではないかと期待してゐる。