枕草子

二月十九日(日)
八時起床。十一時家を出で一如庵に赴く。一時より如道会例会。余は如覚と松風を吹くも、出だしで音が出ず、途中も乱れるなどよくない出来也。其れでも、先月の独奏よりは音楽らしくなつてゐたやうに思ふ。三時半散会し、多くは八重洲に移動し、如道会メンバーも出演する有楽伯なる演奏会に行く。四時半開演。現代曲、外曲など普段余り聞かぬ類の曲多く、睡魔に襲はる。途中休憩時間に神先生に挨拶の後中座して帰途に就く。丁度横浜に買物に出てゐたN子と駅で落合ひ倶に帰宅す。
此の日書架より古典文学大系の『枕草子 紫式部日記』を取り出し、読み始む。『藤原道長』を読み終へ、行成の『権記』と『一条天皇』を読み進めて行くうち、やはり気になつて来たのである。古文の教材として自分とは何の関係もない世界としてしか感じられぬまま読んでゐた頃と違ひ、時代背景の知識や興味が増しただけでなく、社会に出て会社の人事や権力者の移り変りによる雰囲気の変化といふやうなことを肌で知るやうになつて、当時の状況を知つて読むと思ふところ少なからず。特に、清少納言の仕へた一条帝中宮定子其の後の悲運を知りながら、悲嘆めいた事は一切言はずひたすら往時の明るく雅なことどものみを書き連ねた清少納言の気持ちを考へると、澄み切つた秋の空のやうな悲しみを覚えずにはゐないのである。
道長一条天皇中宮定子や彰子、紫式部清少納言赤染衛門大江匡衡和泉式部藤原行成藤原公任藤原実資、安部清明といつた「有名人」が同時代人として生きた十世紀末から十一世紀初頭といふ時期に、国文学的な興味といふより、其の後の日本人や日本文化との、断絶と継続の両方を見てとる面白みを感じてならないのである。院政期を経て源平の騒乱の後鎌倉時代となり、仏教文化の新たな展開とともに国際関係も緊張して国内がガラガラと混乱し始めて南北朝、そして室町に至る辺りが、巨視的に見た日本文化の転換点であることは周知の話であらうが、われわれが直接相続してゐる室町以降の「日本文化」の源流は、どれも皆本質的にはさうしたいにしへに対する憧憬を持ち続けたことは疑ひ得ない。否むしろ、厳として在る断絶をきちんと理解しきれぬ程に、日本文化の自己同一性といふ「神話」を明治以降の恣意的な教育システムの中でいつしか誰もが身につけてしまつたと言つた方がいいのかも知れぬ。

それにしても千年前に道長や行成、実資の書いた日記が今に残り、行成や公任の書いた書が書道の手本とされ、源氏物語枕草子が読まれ続けてゐるといふのは、今更ながら凄いことではないか。