訂正ひとつ

二月十七日(金)晴
昨日敦明親王小一条院と号されたことに対し、恰も其れが小馬鹿にした名前のやうに書いてしまつたが、必ずしもさうではなささうだ。親王の母親は藤原済時の娘娍子だが、済時は師尹の子で、此の家流を小一条流と称してゐたやうなのである。師尹は忠平の子で、忠平には他に実頼、師輔といふ子がゐて、実頼は小野宮家、師輔は九条家と称されてゐる。すべて藤原北家主流であるものの、一代毎の権力闘争の果て別の家流として対抗意識も強かつた。師輔の子が兼家、兼家の子が道長である。ちなみに道長は長男ではないのに兄や甥たちに打ち勝つて氏長者となり摂関家九条流に固定することに成功して、後の五摂家はすべて九条家の流れになる。五摂家筆頭は近衛家とされてゐるが、本来は近衛<九条<北家<藤原氏といふ包含関係であつた。いずれにせよ、さうした藤原北家の家流の中に小一条家のあることを知らずにゐた訳で、藤原氏系図研究を趣味とする余としては恥ずかしい限りである。伏して詫びる次第である。ただ、言ひ訳がましいが、後一条天皇の皇太子が廃されて「小」一条院になつたとなれば、勘繰りたくなるのも不自然ではなからう。