臨書

三月四日(月)陰後晴
毎朝二・三枚の臨書を續けて久しいが、黄庭堅、王羲之、張廉卿を經て今は米芾をやつてゐる。書としては黄庭堅のものが好きであのやうな字を書きたいと思つてゐたが、今囘米芾を臨書してみて、實は此方の方が遙かに模しやすく書いてゐても面白く感じられるといふ事がわかつた。好きな字と書きやすい書體には違ひがあるのであらう。米芾のは筆の運びや入角などが容易に想像出來て樂に書けるし、筆の流れから息遣ひや工夫といふやうなものが體感できるやうな氣がするのである。氣質や性格が似てゐるのかも知れぬ。黄庭堅だと、厳格さや高邁な理想主義は感じるものの、真似て書かうとしても何処かしら無理な感じや窮屈さもあるやうに思ふ。
同じやうな事が、唐の大家の楷書でもあつた。欧陽詢の楷書は見る分には素晴らしいのだが、臨書をしても余り面白くない。几帳面で真面目過ぎるのだ。ところが顔眞卿のものは、臨書してみると其の面白さが分かつて實に樂しいといふ事があつた。物凄く大雑把で、米芾や顔眞卿には失禮かも知れないが兩者及び余に共通するのは、書の見映えよりも書いてゐる時の面白さを重要視する姿勢ではないだらうか。工夫する樂しさや一寸した茶目つ氣のやうなものを、黄庭堅や欧陽詢よりは感ずるのである。
今後仮名の臨書も考へてゐるが、好きな藤原行成の書ももしかすると實際に書いてみると自分に合はないことも考へられる。自分の書きやすい書體の書き手にいつどのやうに巡り会へるのか、其れも亦樂しみのひとつではあらう。
ところで、余が何故ブログといふ形で日記をつけてゐるのか、今日會社で思ひ當つた事がある。要するに、余は會社では殆ど口を聞かず、思つた事を其の場で話すこともないので其れが溜まつて書かずには居られなくなるのであらう。會社は本當につまらない人間ばかりで話題もなく會話に加はりたくもないのである。だから黙つてゐる。幸ひ仕事がら人と話すこともなく過ごせるし、要があればメールで済ませる。此れは社會的には良くない傾向だらうが、世捨て人にとつては結構暮らしやすい世の中になつたとも言へさうである。