責任の所在

三月五日(火)晴
歩いている時に考えた。今の僕のこの体たらくも、結局は自分自身の責任だ。僕が選んだ生き方の果てに今があるのだから、他の誰のせいでもなく、すべては自分が選びとって来たことの結果なのだ。自分の責任で選びとることは何と素晴らしく誇らしいことだろう。実際に僕は望むことを選んで来た筈なのだ。僕は今まで、やりたいことがすべて出来たわけではないけれど、結局のところ嫌なことはしてこなかったし、かなり好き勝手にやって来た。思い通りに生きられる訳ではないにしても、嫌なことを強いられて来たということはない。
…そう考えて来たら、何だか気持ちが軽くなった。人生のあらゆる局面で人は自ら選んで行動する。それを全き自由と呼ばないまでも、それは自分であることの誇りと喜びではあるだろう。運命や時代という制約は避けられないにせよ、その中でいつだって人は右か左かの選択を迫られ、自分で決めて歩んで来た筈だ。
こういうのはちょっと実存主義的な考え方なのかも知れない。ただ、生きものである以上、ひとりで生きているわけではなく、食べ物を始め多くのことを他者や自然、環境や社会から得ている訳で、そのことへの感謝と、自分以外のものに生かされているという気持ちは常にある。そしてまた、自分などというものの曖昧さや、自分と思っている一個の生命が生物やいのちというより大きなものの一端に過ぎないかも知れぬという思いも、片隅に常に意識している。
こういう思いや思考のすべてを成り立たせている、意識や脳の働きには驚くより他はないけれど、とにかくかろうじて生まれてからこの方ずっと繋がっていると思える「自分」という意識が今までの出来事の主役であり監督であったことは確かなのだ。そうした時間の果てに今ある自分を引き受けるのは、自分以外にはあり得ない。そう思うと、今まで誰かや何かのせいにして責任逃れをしてきたような、変な気分になる。僕が自分の全責任を負う。そんな当たり前のことが分かっただけでも、結構明るい気持ちになれるものだ。
間違っていたかも知れない。過ちも多いだろう。でも、もはや取り返しのつかない過去を悔いるより、そうして選び取って来た結果の自分を受け容れ、責任をすべて自分自身で負うこと、そしてそれが出来るということこそ、とても素晴らしいことなんじゃないだろうか。僕は今やっとそのことに思い至った気がしている。