情勢惡化

二月十四日(土)晴
戰前の中國での話である。恐らく上海邉りであらう。余は食品會社か食堂を經營する會社に勤めてゐて、税關に食材を取りに行くのだが、官吏が反日運動の高まりの中で日本人に對し意地悪をして物を通さず、腐つてから渡すなど横暴を極めてゐる。余は長官の長男が惡の根源であると見抜き、それを社長に告げるが、社長は最近入社した若い女性事務員に目を付けてゐるやうで上の空である。その事務員は老けた後の容貌を容易に想像し得るやうな、決して美しくはない女なのであるが、歌が上手いといふ。社長もオペラ歌手だつたので二人で歌ひ始めたので余もオペラ風の大きな声で歌ふ。何だか社長に取り入つてゐるやうで我ながら見苦しい。しかし其の間にも反日の形勢は日ごと強まり、危険を感じて日本人は車で領事館に避難することになる。速く走ると狙はれるといふので、田舎道をゆつくり走る車、緊張感で體が強張る。やがて高塀に囲まれた領事館に入ると中は居留邦人がすでに大分集まつてゐるやうで立體駐車場は車で一杯である。ロビーに行くと財界の大物がゐたので挨拶すると、背の高い西洋人を紹介され、彼と一緒に外を偵察することになつた。西洋人と一緒なので中國人も遠巻きで見てゐるだけだが、それでも緊張感がある。獅子の像が飾られた人気のない公園を歩き、今日の宿泊に地主に金を払つて麦畑を借りる。其処で寝るのが一番安全だといふ。次の日、嘗て日本人が建てた別荘に行くと和風庭園と石碑が殘されてゐる。讀むと、此処に來るまで何十年、住んで何十年と、實につまらない事が刻んである。余は石碑の處から庭園に降りて行かうとするが、物凄い數の蚊が飛んでゐるのが見えたので石碑の傍の蚊取り線香のある場所に戻つたが、下には日本から來たらしい中年婦人の一團が見學してゐて、蚊に刺されないだらうかと訝しんでゐる。