《津山藩医井岡道安とその時代 ― その二 》

三、三百石の藩醫

前號の最後の方で、寛政四年に津山に於て宇田川玄隨が行つた解剖に立ち會つた醫師として「井岡洞安」なる名前があり、それが道安であらうと推測した。その後になつて津山洋學資料館のウェッブ上の表記そのものが誤りであることが判明したので報告する。すなはち、その記事の根據となつたと思はれる史料、『町奉行御用日記』の寛政四年十月八日の項には、「井岡道安」と記されてゐるやうなのである。偶々、その記載を引用した學術論文に出會つて氣づいた【注-一】。
 出典や原史料に當らずにインターネツト上の情報を參照する危險性を圖らずも思ひ知らされることとなつたが、現時點では道安をめぐる原史料に當ることはきはめて難しい。津山藩の文書は比較的よく保存されてゐるが、その江戸藩邸に於る公式記録である『江戸日記』こそ、津山郷土博物館のホームページ上からデジタル畫像としていつでも閲覽できるものの、それとて飜刻ではなく文書そのものであるから御家流のくずし字を知悉してゐないかぎり、判讀は容易ではない。ましてや、今囘の腑分けに就いて記された、『町奉行御用日記』をはじめとした殆どの史料は津山まで出掛けて行かなければ見ることができないのである。
 ネットで見られる『江戸日記』を試しに覗いてみたところ、偶々同じ寛政四年の正月八日に藩士の石川左近右衞門が風邪をひいて道安の診察を受けた旨の記載を發見するに至り、今後道安の動向を把握するためには、是非とも江戸と津山での記録を讀み解く必要があることを痛感させられた。今のところ前段として知らねばならないことが多すぎ、近世史の「常識」を追ひかけるだけで手一杯だが、いづれはさうした史料を活用すべき段階が來るにちがひない。そのため、わたしは「五十の手習ひ」を始めることにした。古文書解讀、すなはちくずし字解讀のための獨習を始めたのである。道のりは果てしなく遠いが、道安の殘した香道傳書を讀み解くために必要な素養でもあり、氣長に學習を進めていきたいと考へてゐる。
 史料の渉獵は先に延ばすことにして、今囘は井岡道安に就いて調べ始めてわたしが最初にぶつかつた疑問を提示することから始めてみたいと思ふ。それは、いくつかの史料から明らかにされた【注-二】、藩醫としての井岡家の祿、すなはち給與である三百石と云ふ數字である。この石高は、津山藩の他の藩醫と比べても、またその頃の他藩のもつと有名であつた醫師に比しても相當高いからである。しかも、同業者と云ふ「横」の比較で高祿なだけでなく、津山藩藩士と云ふ「縱」の序列の中に置いても、かなりの地位に相當する祿と言へるのである。何ゆゑに藩醫井岡家は破格と云つていい高祿で召し抱へられてゐたのであらうか。
 ところで、時代劇や時代小説ではよく「御典醫」とか「御匙」などと云ふ者が、「町醫者」より格式の高いものとして登場する。藩醫の給與の比較をする前に、このまぎらはしい「典醫」と「藩醫」のちがひをざつと調べることにしよう【注-三】。
 「典醫」の淵源は七一八年に大寶律令を改修した養老律令の「醫疾令」にある。言ふまでもなく唐の制度を模したもので、醫療行政機關として「典藥寮」と云ふ役所が置かれた。典醫の「典」はここから取られ、典醫とはすなはち宮廷醫師のことを指すやうになつたのである。江戸時代に至つて幕府は朝廷の制度にならつて典藥頭を置き、京都から典藥寮の醫師であつた半井家と今大路家を高祿で招聘した。半井家千五百石、今大路家千二百石と云ふ、中級旗本竝の厚遇であり地位は世襲であつた。實際の醫療を行ふことはなく、朝廷の權威を背景とした醫療行政の長官と云つた位置づけになるだらうか。
 とは言へ、典醫と云ふ職名は幕府の職員録である「武鑑」には見えず、正式な役職名と云ふよりは官醫を示す通稱と考へた方がよささうだ。町醫者と區別されるものとして官醫を典醫と呼ぶのであれば、諸藩の藩醫も官醫にはちがひないから典醫の仲間と云ふことになり、實際にさう呼ばれることもあつた。逆に幕府の御典醫が藩醫と呼ばれることはない。「藩醫」はあくまでもそれぞれの藩に屬する醫師であり、朝廷や幕府が醫師の資格を與へるのではなく、醫師の身分や職制、職掌名も藩が獨自に定めてゐた。
 ここで注目すべき點は、醫師に資格を與へる制度と云ふか、公權力による醫師の認可と云ふ發想じたいが、明治に至るまで日本には存在しなかつたと云ふことである。醫師に資格も免許もないと云ふことは、今日のわれわれの目には異樣に映る。藩醫には家の世襲が多かつたにせよ、町醫者などは要するに醫者をやりますと宣言すれば開業できた譯で、江戸時代に於て醫者とはすべて「自稱醫師」に他ならないことになるからである。
 少し本題からはづれるが、その邊の事情に就いてつけ加へておくと、國家權力が何にせよ許認可および管理統制を貫徹しようとする近代國家のありかたは、決して「あたり前」なものではない。それは醫師と同じく、藩で學問や行政に關る「儒者」なる者たちにも何ら資格らしいものがなかつたことからも明らかである。さうした事實は、朝廷も幕府も、あれだけ中國の制度を移入しておきながら、つひに科舉の制を取り入れなかつた、近代以前の日本の特異性を想起させる。それをぬるま湯式と言ふか、合意形成型とか、縁故重視と云つた日本的な精神風土にむすびつけることは容易であらうが、一方で、資格試驗がないにもかかはらず、藩醫を始めとして多くの醫師たちの水準は決して低くなかつたと云ふことも覺えておく必要があるだらうと思ふ。それも單に、技倆の伴はない醫者は淘汰されるからと云つた「市場原理」がはたらいた結果と云ふ譯ではなく、醫師の側に覺悟と自覺、そして醫を仁術とこころえる志や、治療や施藥の智識を増やさうとする積極的な意志と姿勢があつたからこそのことのやうに思はれる。
 典醫と藩醫の區別に戻ると、便宜上この誌上では幕府に直接仕へる醫師を典醫、各藩に屬する醫師を藩醫と呼ぶことにしたい。典藥頭の例でみたやうに、さすがは幕府だけあつて典醫の地位や祿は藩醫より一般に高い。直參と陪臣のちがひだから當然とも言へるが、まづ典醫の給與を見てみよう。幕府御典醫の制度や名稱にも當然時代の推移による變遷はあるが、奧醫師、御番醫師、總御醫師、寄合醫師、小普請醫師、それに目醫師や口中醫(齒醫師)などが置かれてゐた。奧醫師が實務上の最高位であり、更にその筆頭が「御匙」と呼ばれ、將軍の主治醫となる。その職を務めた曲直瀬家は千九百石取りであつたが、これは例外中の例外であり、奧醫師の祿高は通常二百石から五百石位であつたと云ふ。次の御番醫師になると二百俵以上で、家祿がそれ以下の者がこの役につくと役料として百俵が加へられた。給與の形態がちがふだけで、俵はほぼ石と同額と考へれば三百石よりは下がこのクラスになる。更に格が下つて武士や町人を診察する小普請醫師になると三十人扶持が支給されたと云ふから、これは百五十石に相當する。
 典醫の貰ふ給與がだいたいわかつたところで、次は道安の屬した津山藩の場合を見てみよう。津山藩は神君徳川家康の次男結城秀康を祖とする越前松平家が藩主であるが、名門のわりに石高は五萬石と少ない。後十萬石に戻されるが、道安の頃は五萬石であつた。津山藩藩士の役名と祿高が記された『津山藩分限帖』と云ふものが殘つてゐて、文政一二年(一八二九)のものを見ると、江戸詰の醫師として「番外御匙」に井岡道貞の名が載つてゐる。當時は道安の子櫻仙の代になつてゐた筈だが、井岡家の家督を繼いだ者として道貞の名で出てゐる。石高は勿論三百石である。
 これに對して津山の國元の醫師筆頭として國島桃庵の名があり、「御醫師」の役名で高百石とある。次のランクが七十五石で村山良哲と久原玄順である。この通信の讀者には馴染の深い、京大化學科教授久原躬弦はこの玄順の子孫である。また、幕末以降にさまざまな分野に優秀な人材を輩出した箕作家の阮甫の名もあるが五十石に過ぎない。
 江戸は物價が高いために江戸詰の井岡家にはその分加増されたかと云ふと、さうでもない。江戸後期から幕末にかけて蘭學で名を馳せた、玄隨に始まる宇田川家にしたところで、江戸詰ながら二十人扶持であり、これは石高に直すと百石になる。ただし、文政一二年時には當主玄眞百石の他に、その養子の榕菴も五人扶持で雇として召し出されてゐるので、宇田川家全體では百二十五石見當の祿高となつて津山の藩醫としては二番目の高祿になるのだが、それでも井岡家の半分にも滿たない。
 他藩ではどうか【注-四】。大藩の金澤藩の藩醫となつた、宇田川玄眞の弟子でもある藤井方亭は百五十石を取り、息子方朔の代になつて金澤藩江戸在府醫師として二百石を食んだ。三十二萬石の福井松平藩の例で見ると、「御匙醫師」の職に七名がゐて扶持高は百から二百石となつてゐて、「奧御醫師」「表御醫師」はそれより人數は多いが、最高でも百五十から二百石である。津山藩よりはるかに大きな藩でかうであるから、標準の相場として百石取れば大したもの、二百石は大出世と云ふ感じではなからうか。それに比べると井岡家の三百石はいかにも多い。
 では津山藩の他の藩士とくらべるとどうだらうか。さきほど見た文政一二年の分限帖によれば、家老職および家老格の四名が千石、御年寄格七百五十石となり、次第に役が下ると祿高も下がる譯だが、三百石となると大目附格より下、勘定奉行や大番組よりは上と云つたところである。津山藩の俸祿の形態には知行取、扶持取、俵取の三種あるが、石數で表はされる知行取は上層武士にかぎられてをり、井岡家はその一角を占めてゐたことになる。知行の詳細は各藩によつて異なり、今のところわたしに津山藩の知行の實際を語るだけの智識はないが、現物の米や通貨で支給される下級武士とくらべ、また江戸在住であることから、それなりの家政組織を必要としたのではないかと思ふ。 
 以上のことから、井岡家が異例の高祿であつたことは理解できたと思ふ。その理由を考へてみたいが、その前にひとつ氣になることがある。それは道安や息子の櫻仙の肩書きとして屡々(しばしば)「儒醫」なることばが使はれてゐることである。儒とは儒教を奉じる儒學者に他ならないが、江戸時代には醫者にして儒者と云ふ例は井岡親子にかぎらず決して少なくない。そもそも醫學と儒學はどう云ふ關係にあるのか。兩方を兼ねることで俸給が上がることもあり得るのであらうか。次號では「儒者」なるものを調べることから始めることにしたい。
【注-一】下山純正「美作在村蘭學概説」(『在村蘭學の展開』田嵜哲郎編・思文閣一九九二所收)
【注-二】井原家の家祿はふたつの論文に據つた。ひとつは、『美作國津山藩分限帖の分析』(河手龍海・津山高專紀要1(4)一九六七)であり、そこで檢討された分限帖は道安の子孫の代のものか、あるいは道安より前の時代のものである。先に見た道安沒後の文政一二年や天保一一年には確かに三百石とある。ただし、寶永五年(一七〇八)や享保一一年(一七二六)の分限帖の百石以上のリストに井岡の名は見えない。ふたつ目は『井岡冽の人物像』(小宮佐知子・一滴第20號二〇一二)で、そこに道安の息子櫻仙の墓碑銘に刻まれた記録が引用されてゐる。それによれば道安の義父道貞が初めて「三百斛」で醫官として津山藩に仕へた旨が記されてゐる。二つの資料から、井岡道貞が藩醫として仕官した時期が享保一二年(一七二七)以降であると推定できる。ただし、道安の沒年(一八〇五)から考へるともう少し後、寶暦年間あたりとも思はれるが、これに就いてはいづれ津山に行つて史料に當つて明らかにしたいと思ふ。
【注-三】山田重正『典醫の歴史』(思文閣・一九八〇)・三田村鳶魚『泥坊の話お醫者樣の話』(中公文庫一九九八)などを參照した。
【注-四】海原亮『近世醫療の社會史』(吉川弘文館・二〇〇七)及び同氏『江戸時代の醫師修業』(吉川弘文館・二〇一四)を參照した。