夢の深読み

三月二十三日(金)雨
昨日高山宏著『夢十夜を十夜で』読了。先日谷中の古書肆信天翁で新本で買つた、羽鳥書店といふ千駄木にある出版社から出た書き下ろしの文庫版だが、一見して驚嘆、瞠目して読む。明治大学国際日本学部の授業にて、言ふまでもなく漱石の『夢十夜』をテクストにして読み込んだものを再構成して書かれたといふ。博覧強記、縦横無尽の解釈と連想が、文学を読むとはかほどに楽しいものだつたのかと思はせてくれる。同時に、何度も読んでゐる夢十夜なのに、如何に自分が何も読みとれてゐなかつたかを苦く気づく一方、読んで楽しい文学評論の書に久しぶりに巡り会つた気がする。おまけに「教育の場」としての臨場感もあり、最初は本文にある難しい漢字も碌に読めなかつた学生たちのレポートが、高山先生の感化を受けてどんどん鋭い読みで切り込むやうになる様は感動的ですらある。正直言つて余の学生時代などより彼ら彼女らの方が余程感覚や感度は良ささうなのである。
高山先生と言へば、師の高橋康也とともにルイス・キヤロルへの傾倒で知られ、アリス好きの余にとりては尊敬措く能はざる御仁であるが、同じく敬愛する漱石をこれ程見事に料理してゐるとは知らずにゐた。本書に挙げられた参考書も読んだ上で、漱石における匂ひの描写とその意味について読み解いてみたいといふ野心も芽生へる。いや元からその志はありながら果たせずにゐたのだが、此の書により重要なヒントを得た思ひである。視覚の絶対的な優位性が最初から自明なものとしてあつたのではなく、正に漱石の生きた時代に現在進行形で進みつつある事態だつたことを思へば、此の前亡くなつた吉本隆明が半端な形でしか解明為し得なかつた漱石と匂ひ・香りといふテーマも改めて魅力的なものに思へて来るのである。
同じ書店から出てゐる高山先生の「新人文感覚」と銘打つた二冊の巨大な書物『風神の袋』『雷神の撥』も是非読みたい。小遣ひ貯めて買ふことにしやう。