津軽義孝

三月二十二日(木)
先日の日乘にも載せた如道会創設時の発起人の一覧中に津軽義孝の名があつた。如道先生が津軽弘前の出身であり、また尺八とは縁の深い津軽藩の当主であつた関係から名を連ねたものであらうか。一般には常陸宮妃華子さまのお父上として知られるが、実を言へば津軽家の血を引いてはゐない。先代の当主津軽英麿に子がなかつた為養子に入つたもので、実父は尾張徳川家義恕であり、義孝はその二男である。もつとも英麿自身近衛家の出身で篤麿の弟であつたが、叔母の尹子が津軽承昭の配偶者となつた関係で養子に入つたものであらう。ところが、其の岳父承昭にしてからが、細川家から津軽順承の娘常姫と結婚して養子に入つてゐる。さらに其の順承にしても養子であるから、実に五代に渡つて養子が津軽家の当主を継いだことになる。現代の感覚からすると異様だが、幕藩体制のもと大名家の存続は藩士にとつて死活問題であり、当主とは即ち社長のやうなものと考へれば理解できやう。創業者一族の社長が続かずに、他から迎へ入れるといふ訳である。
明治になつても爵位や「家父長」制度がある限り似たやうな事情は続いたのである。もう一度整理して津軽義孝の血筋を纏めると、近衛家と細川家の血を受け継ぐ母と、尾張徳川家の当主を父に持ち、毛利家支藩の当主の娘を妻にして、後に常陸宮妃になる華子といふ娘を持つたといふことになる。嫡男でなくともこれだけ高貴な血を受け継げば、どこか男子のゐない名家の当主になれるといふのは、東大を出て一流会社に入れば、仮に其の会社の社長になれなくとも、いずれ子会社や関連会社の社長に成れるのと似ていやう。
津軽家はもともと清和源氏の末裔を称してゐたものの、養子に入つた南部氏の庶家大浦から出た為信が近衛家傍流を名乗つて以来本姓を藤原氏に変へてゐる。十五世紀から十六世紀半ばに生きた近衛尚通と南部氏から出た女性の間に生まれた男子政信が津軽の血筋の養子に入り、其の孫が為信だといふ説もあるらしいが、本当のところは分からない。ただ、少なくとも近衛家津軽家は江戸期を通じて幾つかの婚姻関係はあり縁が深かつたのは事実である。津軽藩明治維新に際して最初奥羽越列藩同盟に与(くみ)しながら官軍側に寝返つたのは近衛家からの働きかけで説得された事が大きかつたといふ。薩長につくか幕府を助けるかは関ヶ原以来の大決断であつたのだらう。
ちなみに義孝の後を継ぐ津軽家十五代の当主も養子で名を晋といふことまでは分かつたが、実の血筋までは追へてゐない。余程男系嫡子の子孫に恵まれない家である。