《津山藩醫井岡道安とその時代 ― その五 》

八、 吉益家門人帳

 この通信百號の最後で、道安が醫術のどの學統學派に學んだかについて知る可能性のある資料として、東大の醫學圖書館の呉秀三文庫に所蔵されてゐる『吉益家門人録』(以下『門人録』)について触れた。これを閲覧しようと思ひながら中々果たせずにゐたところ、三月末にやつと時間を見つけて醫學圖書館に足を運ぶことが出來た。受付のすぐ脇にあるカウンターに豫(あらかじ)め用意した貴重圖書閲覧の申請書を出すと、窓に近い壁際に置かれた机で待つように言はれる。其処が貴重圖書や學位論文等の閲覧用の席であるらしい。さほど使はれないのかふたり分の席が竝(なら)ぶのみである。五分ほどで二冊の『門人録』が収められてゐる秩型の紙の箱を係の人が運んで來てくれた。
 箱を開いて取り出してみると、B5版より一回り小さい判型で「10高知堂製」と記された罫線紙に墨書されてゐる。原本と思つてゐたが、どうやら寫本のやうである。何人かで寫したらしく書體も途中で何度か變はつてゐる。「一」は寶暦元年から文化三年まで、「二」は文化四年から明治四年までの人名を載せる。其の間百二十年になる。
安永二年に東洞が没するので、それまでは東洞先生門人、それ以後は息子の南涯や三代目の北洲、四代目の復軒の門人といふことになる。書式は一定せず、最も簡潔なものは年度と名前と出身地のみであるが、逆に最も詳しいものになると、入門の月日、氏名と名・字・號・出身地・年齢・仕官先・紹介者や京での住所と思しきものまでが記されてゐる。
 近代寫本とは言へ、貴重な古文書には違ひないから、薄い木綿の白い手袋をはめて頁を捲り寶暦の最初から名簿に目を通して行く。明和三年(一七六六)に到つて、
「河合意齊 名憲 字子章 作州津山人」
の名を見出す。
さらに翌年、さらにその翌年と津山からの門人の名前が出て來る。幸先の良さを感じながら鉛筆でそれらの名をノートに書き寫してゆく。
そして、明和六年八月の項に、
「井岡道貞 名元世 字美卿 豊前宇佐高家人 今事作州津山候」
といふ記載があつた。
道安は吉益東洞に學んでゐたのである。
 この発見が尠なからずわたしに驚きと喜びをもたらしたのは言ふまでもない。思ひがけぬ発見であつたのは確かで、既に紹介した小宮佐知子氏の井岡洌に關する論文【注-一】に、道安が江戸で醫學修業中に井岡友仙に見込まれて養子となつたと記されてあることから、京にあつた吉益家の醫塾に通つた可能性は低いと思つてゐたからである。ところが改めて同論文が引用した井岡櫻仙の墓碣銘の原文を讀むと、
「中嶋三折名元世者担登來學於都」
とあつた。東都でなく「都」であるから、素直に讀めば京であつても不思議はない。と同時に、この時すでに井岡姓を名乘つてゐることから、最初江戸に出て何処かの醫塾で學ぶうち井岡道貞の目にとまり、娘を娶らせて入婿に迎へた後に京都に遊學に出した可能性も考へられる。と言ふのも、吉益家の醫塾は今日で言ふ大學院か大學病院のやうなものと考へた方がわかりやすいのではないかと思ふからである。
道安入門よりずつと後のことになるが嘉永五年(一八五二)頃から『門人帳』に入門時の年齢が記されるやうになり、齢の知れる全部で一六七名の平均年齢を計算してみたところだいたい二二歳となつた。最年少で一二歳、最年長で三八歳とばらつきはあるものの、實際一九歳から二五歳くらゐが一番多い。醫術を一から學ぶには遅すぎる年齢である。
恐らく、地元でそれなりの基本的な醫學の知識を修めた後に、最新の學説に親しみ醫業の經驗を積むために京に上り吉益家の塾に入るといふスタイルが一般的ではなかつたかと思はれるのである。醫師の修業を始める年齢であるとか修業の期間やそのあり方については、道安の生年の推定にもつながり、それ自體として江戸といふ時代を知る大きな手掛かりになると思はれるので、いづれ詳しく見ていくことにして、今は『門人録』がもたらした新たな情報を追ふことにしたい。
何より道安の出身地として宇佐の高家といふ地名まで特定できたことは大きい。と言ふのも、嘗て道安の元の苗字である「中嶋」の名と、すでに出身地としてわかつてゐた「豊前」、そして「醫師」をキーワードにしてネツトの検索をかけて「中嶋家の歴史」なるホームページの存在を知つてゐたからである。そして、今囘改めてそのページを見てみたところ、宇佐市高家が其の中嶋家の本拠地であり、高家には中嶋神社まであることがわかつたのである。
さつそく、そのページの管理者である中島彰信氏にメールを送つてみた。すると、手許の家系圖に元世の名は見えないが、高家に中嶋はひとつの家系しかないから間違ひはないだらうとの返事を戴いた。親戚等が持つ詳しい家系圖も今後調べて貰へるさうで、道安の出自や出生年を知る手掛かりが得られるのではないかと期待してゐる。
ちなみに中嶋家は天武天皇の皇子舎人親王の孫にあたる清原夏野に始まるといふ。夏野七世の子孫清原武則が出羽國の俘囚の長となり、さらに其の子孫成祐が尾張國中嶋郡の郡司となつて中嶋を名乘る。さらに下つてその子孫が豊前宇佐郡高家郷の地頭となつて今に至るといふ【注-二】。面白いことに中嶋家の子孫には今でも醫者が多いやうで、道安との血の繋がりを感じさせるのである。
 もうひとつ、宇佐出身であることから思ひ出されたのは、幕府連歌師里村家の人名録のことである。道安の名を載せるその人名録は宇佐四日市に住む渡邊家の所蔵になるものであり、渡邊家からは江戸後期に綱豊といふ人が出て里村北家の玄川を繼いで玄碩となつてゐる。高家四日市とは三〜四キロ離れてゐるから、ともに舊豪族の家同士の良好な婚姻關係を結ぶのに程よい距離ではないだらうか。今のところあくまで想像の域を出ないが、たとへば道安の母親が渡邊家の出であつたとすれば、その影響で道安が宇佐時代から連歌に親しんでゐた可能性も考へられないことではない。
 ところで、『門人録』には道安の他にも津山出身の門人の名が散見されることはすでに述べた。それらの人々にも此処で少し触れておきたい。最初に出て來たのが先に名を記した河合意齊である。道安に先んずること三年前に東洞の門を敲いてゐる。偶々、同時期の京の儒學者皆川淇園の『有斐齋受業門人帖』を調べてゐたら、
「明和七年冬 美作津山 河合意齊 憲 字子章 年廿三歳」
とあるのを見つけた【注-三】。寛政期に道安の同僚として河合玄碩の名が見えるので同一人物かも知れない。この記載から逆算すると、吉益家門人になつた明和三年に意齊は十九歳だつたことになる。先に算出した平均よりは若いが、それから四年ほど東洞のもとで醫術を學んでから淇園の私塾で儒學を修めたものであらうか。町泉壽郎氏が『吉益家門人帳』を調べた研究【注-四】によると、吉益塾での平均在塾期間は三年と推定されることから、少し若くして入つた分、多少時間が掛つたのかも知れない。さうだとすれば、道安が入塾した時期にはこの意齋を始めとして津山藩關係の者が複數在籍してゐたことになる。
皆川淇園の塾は儒學を一から學ぶといふよりは既に四書五經を讀みこなせる者たちへの上級コースだつたものと思はれ、ある程度年齢のいつた者や醫師の入塾者が多かつたやうである。また、さうした場合、淇園に學ぶ動機は文章修業といつた趣きが強いことも知られてゐる【注-五】。道安も儒醫であるから、或は意齋と同じコースを辿つたかもしれぬと思ひ同門人帖を調べたが道安の名はなかつた。ちなみに淇園の學問は考證學に屬すると謂はれるので、相當する醫の方の學派でいふと東洞よりは多紀家に近いことになる。
 津山出身の吉益家門人に話を戻さう。
明和四年(一七六七)に、
「丸尾元意 名良尚 字子進 作州津山人」
とあつて、丸尾の苗字は文政一二年(一八三九)の『津山藩分限帖』や百年近く後の文久二年(一八六二)以降の『津山藩士名簿』に見えるので、元意かその子孫が藩醫に採りたてられたものと思はれる。
 さらに明和五年にも、
「齋藤友仙 名時敏 字孟修 東都人今事作州津山候」
が入門してゐて、同じく文政一二年の分限帖に江戸詰の醫師として「齋藤玄洲」の名が見えるので、年代から言つて友仙の子であらう。同じ年井岡家でも道安の息子櫻仙の名が載つてゐるからである。
翌年は井岡道安が入門し、その翌年明和七年には、
「高畠友賢 名俊明 字子宣 作州津山人」
が入門。高畠の名も文政の分限帖や幕末の藩士名簿に見えるが、道安も見学した宇田川玄随による腑分けの際に、町醫者として高畠道友の名が記録されてゐて、道友は友賢本人かその子息だと思はれる。こちらも後に町醫者から藩醫へ登用されたものと見える。
 この高畠友賢を最後に、津山から吉益家への入門者がしばらく途絶える。東洞先生の他界が近づいたこともあらう。其の後寛政期や幕末になつてから二・三人津山藩關係らしき者の入門はあるが、明和期のやうに毎年津山から入塾するやうなことはなかつた。
いづれにせよ、明和の一時期に當時有名だつた東洞のもとに津山から計畫的とさへ思はれるペースで毎年のやうに、後に藩醫になるべき人材が送り込まれてゐた事は特筆に値しやう。それが意圖的であつたかどうかはともかく、東洞の醫塾や京の遊學先に關する情報が同郷の者たち同士で共有されてゐた可能性が窺へるからである。
同様に、他藩出身者との繋がりや情報交換が密であつたことも想像される。たとへば、最初に名前の出た河合意齋の場合、有斐齋門人帖には、紹介者として山脇東洋の高弟で柳川候に仕へた儒醫、淡輪元純の名が見える。淡輪自身も淇園に學んでおり、その門人帖での記載を見ると紹介者として備後福山候臣緒方意察の名が出て來る。藩を跨いだ醫師や儒官の交流や交際の廣がりを感じさせる。
此の邉のネツトワークについても、江戸期の醫者の修業形態を詳しく検討する際にもう一度考へてみることにしたい。

九、明和六年の東洞と京

 吉益東洞については七においてすでに簡單に触れてゐるが、道安の師であることがわかつた以上もう少し詳しく見ることにしたい。
吉益爲則、字は公言、姓は源氏、管領畠山氏の末裔で、本人も其の出自を自負しており、管領家と同列にある徳川家や他の大名への仕官を斷つてゐる。元禄一五年(一七〇二)安芸廣嶋に生まれ、三七歳の時家族を連れて京に出た。醫業を爲すかたはら山脇東洋や松原一閑齋の知己を得て倶に『傷寒論』の攻究に努める。延享三年(一七四六)東洞院(ひがしとうゐん)に轉居し、東洞(とうどう)を號とする。五〇歳前後から醫學や処方に關する著作を始めてゐて、道安が入門するより以前に『醫斷』や『類聚方』『方極』などが刊行されてゐる。言ふまでもなく、古方醫の大成者として知られる。
 その人となりは『東洞先生行状』【注-六】によれば
「剛強篤實にして浮華を好まず、容貌卓絶、黄髪にして蝟毛(いもう)の如し。威風凛凛として眼光人を射る。其れ人に對して道を論ずるや終日厭はず、食を忘れ寝を廃し言を�冱(はげし)うして目を瞋(いか)らし、勢ひ益々壮んなり」
といつた風であつた。黄髪にして蝟毛の如しとは、老人にも拘らず髪が針鼠のやうに逆毛立つてゐるといふことであらうか。殘された肖像畫を見ても、確かに眉毛はピンと逆立ち眼光は鋭く、頑固で強面(こはもて)な印象を受ける。
大志を抱いて京に出て來たものの、盗人に家財を奪はれて苦難の日々を送つたこともあつてか苦労人の顔つきである。其の一方で、能樂を好み、管領家といふ出自への矜持からか室町幕府以來の武家文化の正統を行く氣概があつた。其の意味で東洞が香道連歌を嗜んでも不思議はないことになるが、今のところさうした記述や證拠に出會つてゐない。
道安が入門した明和六年に東洞は六八歳になつてゐたが、此の年は吉益家にとつて何かと忙しい一年だつたやうだ。『東洞先生行状』に從つて、出來事を見ていくことにしたい。 
まづ、春先の二月に東洞は家族を連れて廣嶋に歸郷を果たす。所謂故郷に錦を飾るといふ里歸りである。安國寺恵瓊の創建になる、廣嶋藩主淺野家の菩提寺でもある国泰寺に赴き祖父畠山道庵の法事を爲すつもりであつた。しかし、道々門人が迎へ病人が後を追ふなどして行路は遅遅として進まず、數十日掛つてやつと廣嶋に着くも、此処でも歓待の他治療を求める病人が門前市を成し、居ること數カ月、五月になつてやつと京に戻つた。そして直ぐに住居を東洞院から下立売烏丸西ニ入町に移す。御所の南側から西隣へと移動したことになる。現在平安女學院のある邉りではないかと思ふ。八月に入門した道安は、從つて東洞院ではなく此方の方に通つたことになる。
七月には後にメシエ彗星として知られる彗星が現れ、これを見た東洞は恐懼して奇妙な事を言ひ出したといふ。すなはち、息子の南涯に向かつて
「今孛星(はいせい、彗星のこと。筆者註)を見る。其の輝光心を射る。吾れ我が身を省るに天威を犯すことを知らざるなり。頃者、積年の志願を果たさんと欲し智巧を設けて機利を仰ぐ。是れ天明に逆ふならん。是れ以て計畫背馳し大いに積貨を亡す。汝、諸物を賣り、而して不足を償ひ我が汚行を遂げたること勿れ。吾れ今より以往諸州を歴行して、病人京師に來ること能はざる者邇(ちか)き從り遠きに迄(およ)びて救ふ。死する所を以て墳墓の地と爲さん」
と言つたのである。
米の先物取引か何かで投機したのが見事に失敗して、それまでに貯めた私財を失つた失意から、天命に逆らつた以上單身で治療行脚に出掛け、その最中に野垂れ死んだら其処を墓場にしてくれといふのだから、これはもう破れかぶれである。流石に家族が止めて事なきを得るのだが、東洞先生氣落ちしたのか怏怏として樂しまず、終に家事を悉く南洲に任せるやうになつてしまつた。
もちろん私腹を肥やさうとしたのではなく、家門の再興か、大規模な醫院ないし醫塾を開くといつた宿願を果たさうとしての投機であつたのだらう。江戸では明和二年(一七六五)に多紀元孝(號玉池)が醫師の教育機関として「躋壽館(せいじゆかん)」を設立してゐたから、さうした企圖があつたとしても不思議ではない。
「天命」に從ふ事の大切さを説いて來たこともあり、損失に對して精神的に追ひ詰められたのであらう。かうした事件のあつた直後の八月に入門した道安は、東洞存命中にも拘らず東洞先生から直接指導を受けることは尠かつたかも知れない。
ちなみに、道安入門前年の明和五年に入門した峯右膳や和田泰純は、吉益門人の中でも著名で著作もある。もちろん本人の資質の違ひもあるだらうが、師とする人の年齢と入門時期の巡り合せの微妙な違ひが、案外其の人の後の人生を左右することもありさうである。
その一方で、東洞の醫論の代表作、或は集大成と云はれる『醫事或問』がこの明和六年に刊行されてゐる。尤もこれが東洞生前に上梓された最後の著作となり、この頃を境に急速に氣力が衰へたのかも知れない。四年後の安永二年に七二歳で亡くなつてゐる。
 道安や高畠道賢の後津山から吉益家への入門者が絶えたのは、後を繼いだ南涯が若かつたことによるのであらうか。後になると南涯の評判はむしろ東洞よりも高まり、前述の町泉壽郎の研究によれば、東洞の門人が五四三人だつたのに對し、南涯門は一三六九人を數へてゐる。次の北洲門で六七六人、四代目で明治まで生きた復軒の門人は三五九人であり、四代の門人總數二九五七人の多きに達した【注-七】。
さて、吉益東洞家の明和六年はさうした出來事のうちに過ぎて行つた訳だが、その年の京にはどのやうな人たちがどんな生活をしてゐたのであらうか。それを知るのに恰好の史料がある。『平安人物志』と呼ばれる版本で、謂はば當時の名士の人名録及び住所録である。今では国際日本文化研究センターのデータベースからネツト上で閲覧できるので便利である。最初の刊行が明和五年であり、次が安永四年版なので、そのふたつに異動がなければ明和六年の住所が推測できるといふ訳だ。先に述べた吉益家の住まひも、明和五年に東洞院だつたものが安永四年には下立賣烏丸になつてゐたので、明和六年に越した先を下立賣と推定したのである【注-八】。
 學者では先ほどから名の出てゐる淇園皆川文蔵が吉益家からもさほど遠くない中立賣室町西ヘ入町に塾を構へてゐた。淇園自身醫學に必要とされる語彙を聚めて編集した『醫案類語』を出版するなど醫學への關心があつたこともあり、醫家の門人は少なくない。淇園の嗣子灌園は、當時産科醫として名高かつた賀川玄悦の娘を娶つてゐる。その玄悦が吉益塾で南涯に學んでもゐたのである。
ちなみに、東洞の才を見抜いて世に出るきつかけを作つたと云はれる山脇東洋は息子の玄陶や道粛、孫の玄冲らを淇園の塾有斐齋に送り込んでゐる。人體解剖を行つて『臓志』を著したことで有名な東洋は古醫方を後藤艮山に學び、儒學では荻生徂徠に傾倒してゐたが、子孫の教育は徂徠派ではなく考證派の淇園に任せてゐたのである。
いづれにせよ、堀川丸太町の山脇家と吉益家、そして皆川家の間には、當時住まいがさう遠くないこともあつて交流や往來があつたことが想像される。皆川淇園は詩も書畫もよくする當代きつての文人であり交際の範囲は廣く、後世派の曲直瀬享徳院や蘭醫小石元瑞も學んでゐる。
この他、山崎闇齋の學問を繼承した西依成齋も養子の墨山とともに堺町二条下ルになお健在であつた。明和元年に津山藩學問所教授となつた肥後出身の大村荘助が成齋に學んだのは、これよりだいぶ前のことであらう。
醫者では、東洞と同じ古醫方でありながら東洞の「萬病一毒論」や「天命説」に批判的であつたライバルの畑黄山が烏丸四条下ル丁に居て、醫塾「醫學院」を創立するのはこれより一三年後の天明元年のことである。
また、名醫として評判の高かつた福井楓亭が黒門元誓願寺下ル丁に居た。楓亭は寛政二年(一七九〇)に幕府から寄合醫師に登用されて江戸に行き、翌年多紀家の躋壽館が官立の醫學館となつた際には講師に聘(へい)せられた。しかしながら、江戸ではその地の流儀に不慣れでもあり、また頑固で人付合ひの惡い性格からトラブルが續き、しかも醫學館での講義も聴講者が尠かつたといふ【注-九】。
本草學者として有名な松岡恕菴の子である松岡定菴は室町四条上ル町に、また儒醫一本論を唱へた香川修庵の養子で播磨出身の香川南洋が中立賣堀川東ヘ入丁に住んでゐた。
 しかし、『平安人物志』では何と言つても畫家書家の部を見て驚く。池大雅と其の妻玉蘭、そして与謝蕪村伊藤若冲、圓山應舉の名が竝んでゐるからである。安永四年版には其処にさらに曽我蕭白が加はる。彼らが同時代人であることを知つてゐれば當り前なのだらうが、道安が東洞のもとで學び始めた年にさうした人々が同じ京の町に居たと思ふと改めて羨望に似た驚きを禁じ得ない。参考までに當時彼らの住所を舉げておく。

〇圓山應舉  四条麩屋町東ヘ入丁 
池大雅  知恩院袋町 
伊藤若冲  高倉錦小路上ル町
〇玉蘭  祇園下河原 
与謝蕪村  四条烏丸東ヘ入町

 ところで、明和五年版には末尾に續編として「茶人」や「立花師」、そして「香師」の部が豫告されてゐる。香道關係の人名が載るのであれば興味深かつたのだが、殘念ながら實際には出版されなかつたやうだ。一方、文化一〇年版になると突然「連歌師」の名が現れ、里村北家の玄川と玄碩の名が出てゐる。此の玄碩は先ほども述べたやうに宇佐四日市の渡邊綱峯が玄川の養子に入つてからの名である。ただし、寶暦一〇〜一二年生まれの玄碩は明和六年には十歳未満であつたから、道安の京都遊學時にはまだ宇佐に居た可能性が高い。
 といふことは、もし道安が宇佐にゐる時から連歌を始めてゐたとすると、玄川かその前代の玄臺に學んでゐた可能性が高い。玄川は文政元年(一八一八)まで生き、玄碩は文政四年(一八二一)に没してゐるので、道安の晩年には玄碩も京都にゐたことになり、成人となつた玄碩の影響のもと道安が連歌を始めたことも考へられる。尤も今のところ全て想像の域を出ないのは勿論である。ちなみに、文政期に玄碩は京の聖護院村に住んでゐる。この時期の里村家の事情についてはいづれ触れることにしたい。
 明和六年といふ年は、それからすぐに安永となり天明、寛政と續いて一八世紀が終はる三〇年ほど前になる。學問をめぐる環境は寛政以後がらりと変はるし、其の後に來る文化文政期の江戸文化から少し遠い時期に當るせゐか、一般にはあまり馴染があるとは言ひ難い時代かも知れない。此の年に道安が京都に居たことまではわかつたが、當時の道安の年齢も、その前後の足どりもいまだ全く闇の中である。【以下次號】

【注-一】「井岡冽の人物像」小宮佐知子(『一滴』第二〇号・二〇一二)
【注-二】http://www.nakashimarekishi.com/ による。
【注-三】『名家門人録』宗政五十緒他篇・上方藝文叢刊刊行會・一九八一
【注-四】「吉益家門人録の考察」町泉壽郎・(『日本醫史學雑誌』第四七巻一号・二〇〇一)
【注-五】『近世の學びと遊び』竹下喜久男・思文閣出版・二〇〇四
【注-六】『吉益東洞の研究』寺澤捷年・岩波書店・二〇一二    
【注-七】【注-四】と同一論文による。
【注-八】『京都の醫學史』(京都醫師會・思文閣出版・一九八〇)によっても確かめられた。
【注-九】「醫學館の學問形成(二)」町泉壽郎・(『日本醫史學雑誌』第四五巻四号・一九九九)