探墓二箇所

五月十七日(日)晴
八時過ぎ起床。體調が戻らなければ其の儘歸濱のつもりでゐたが、思つたより囘復したので無理せぬ範囲で予定の行動に移る。京都驛より奈良線東福寺に往き、臥雲橋から青もみじを眺めつつ荘厳院に至り、吉益家の墓を掃ふ。入つてすぐの處にあつたので、見つけ出すのは容易であつた。
東洞先生の墓
右が道安の學んだ南涯先生の墓
吉益家の墓域
其れから東福寺驛に戻り、今度は京阪で神宮丸太町まで上りタクシーで金戒光明寺に行く。事前に連絡してあつたので、本堂の受付で待つと墓の地圖の複寫を持つて來てくれた。荘厳院と違つて墓地が廣大なので地圖なしでは辿り着けなかつたであらう。今度は甲斐庄楠音を含む甲斐荘家の掃苔である。卒塔婆に楠音の戒名を見つけ、確かに此処に眠る事を知る。また、隅に打ち捨てられたやうに置かれた墓石を見ると、何と彦さんの戒名がある。後に楠香と倶に駒込吉祥寺の甲斐荘家の墓にに移されたものと思はれる。亡くなつた際には東京に住んでゐたにも拘らず、最初は京都に葬られたものであらうか。氣になるのは同じ墓石に刻まれた二つの戒名である。左には「美雲童女」とあつて夭折した童女であらうから、もしかすると彦さんには長男正興の他に女の子を産んだもののすぐに亡くなつたのかも知れない。もつとも、一方の右にある「寂静院貞雲妙照大姉」とあるので「雲」の字を共有するこの女性の子である可能性もあるが、此方が誰なのか今のところ不明である。
甲斐荘家墓
真ん中が彦さんの戒名
黒谷の墓域を後にして真如堂まで歩く。余は何故か真如堂が好きである。周囲を含めた雰囲氣の良いこともあるが、今囘「真如堂」が「神如道」に音が似てゐることもあると気づいた。初夏の緑の濃い境内を一巡して白川通りに降り、バスで烏丸通りまで出て地下鐡で京都驛に戻る。日差しが強く、折畳の傘を日傘代りに差した位で疲れも出たので、それまでにして急ぎ歸濱。五時半には家に着いた。
初夏の真如堂