東洞とシムポジウム

五月十六日(土)晴、暑し
ホテルで朝食の後地下鐡で京都市役所前に行き寺町通りを上る。革堂近くに古い寫眞館を見つけるが殘念ながら井上寫眞館ではなく小林寫眞館であつた。當ては外れたが、だからと言つて明治の終りに此の近くに井上寫眞館がなかつたことの證明にはならないので、更に調べる丈の話である。一應周囲も歩いてみたが、他に寫眞館は見つからなかつた。
夷川通りを西に進み柳馬場通りを上つて裁判所の脇に行く。吉益東洞が京都で最初に住んだのが此の邊りであることを『京都の醫學史』で知つて訪ねたのだが、特に史蹟であることを示す石標を見つける事が出來なかつた。諦めて東洞院通りの二番目の住居跡を探しに行く。こちらは同書に寫眞が載つてゐるのである筈なのだが之も見つからない。地圖では竹間小學校の角から通りを挟んで西側の位置にあるのだが、何度行き來しても其れらしきものはない。竹間小學校も既になく公園と児童向け施設のやうなものに變はつてゐる。通りの西側は民家か事務所で皆新しい建物ばかりで、人の姿も見えないので尋ねる事もできない。やむなく幼児教育センターなるその施設の事務所に行つて訊いてみることにした。女性事務員が應對してくれたが知らないやうである。ただ、さうした文化財を管理する役所が土曜で休みだといふので、ネツトで検索したところ確かに石標の寫眞がある。それを見ると公園のフエンスのやうなものが背景に見える。それで余は公園側を調べる爲再び外に出て見てみると、入口のすぐ近くに石碑がふたつ並んでゐる。ひとつは竹間小學校の來歴を記した碑、もうひとつが東洞先生住居跡を示す石標であつた。ところが花壇の中に据ゑられてゐるので「名醫吉益東洞」までしか見えない。しかも、京都醫師會の發行した『京都の醫學史』を信じるならば、通りの西側にあつた石標を、新たな建物の建設に際して設置を拒まれたのか、文句の出ない公共の公園に移したとしか考へられない。これでは居住地を示す石標の意味がない。それを誤魔化す爲に石標の文字が讀めぬよう花壇の中に花に埋もれさせたとすれば、是はもう歴史に對する冒瀆であらう。
東洞住居跡の石標
東洞院通りの本來の石標があつたと思はれる邉り
とは言へ見つけ出せたので寫眞を撮り、幼児教育センターに戻つて應對してくれた女性に見つかつた報告と御礼を陳べた。其の際通りに「東洞」といふ名の伊太利亜料理店があることを教へて呉れ、吉益東洞から採つた名かも知れぬと言ふので其の後寄つて聞いてみると、全く關係はないとの事であつた。
其れからすぐ近くの京都新聞社の七階にあるホールで開催中の某フオーラムに参加。すると、七階のロビーからはさつきの幼児教育センターや東洞住居跡邉りが真下に見えるのであつた。奇遇であらう。
京都新聞社七階より。真ん中の白つぽく見えるのが舊竹間小學校の校庭、其の手前邉りが東洞舊居の位置と思はれる。
午前中は發表、午後講演二題の後討議にパネリストとして参加。割によく喋つた。五時過ぎ終了し、参加者はバスに乘つて懇親會場に移動。其の際偶然にも東洞の明和六年からの住居である下立売通りを経由した。そして改めて後から地圖を見て其のすぐ近くに山田松香料店がある事に気づき、山田松のホームページを調べたところ明和年間の創業とあつた。井岡道安も其の頃東洞の醫塾に通つた訳だから立ち寄ることもあつたかも知れない。
さてブライトン・ホテルでの懇親會は最初の麦酒を飲んで直ぐに體調が惡いことに気づき、殆ど何も食べずアルコールも採らずに、其れでも講師の先生方を始めとして多くの方と歓談、樂しい時間であつた。尚、この時知人のO氏も同じホテルに居て余を見かけたが確信を持てずに聲を掛けなかつたと云ふ。かういふ偶然は余には珍しい。
八時前散會となつて、主催の先生方とホテルのロビーで更に飲むことになつた。余は昨夜暑くてクーラーを掛けたまま眠つたのがよくなかつたのか喉も痛み風邪気味ではあつたが、折角の機會なのでご一緒させて戴いた。京大出身の大學の先生たちの闊達な會話を樂しむと同時に、其のネツトワークの廣さと緊密さに驚く。専門に捉はれぬ話題の豊富さと面白さは魅力であり、前囘の研究會同様波長の合ふ會話の樂しさは東京では中々味はふ事の出來ないものであつた。十時前散會となつてF先生と同道でタクシーで京都驛に歸る。喉のスプレーと葛根湯を買つて部屋に戻り、服用して直ちに寝に就く。