八王子千人同心

八月八日(土)晴
松崎二日目。朝十時から民藝茶房にて郷土史家のMさんと會つて色々話を聞く。依田勉三他の松崎出身者の事蹟を調べて居られる方で、流石に詳しく多くの事を學ぶ。特に幕末の安政期に八王子千人同心が凾館近郊に入殖して凾館戰争に巻き込まれる話は知らなかつただけに興味深く、馬場姓を名乘る千人同心の娘が依田勉三の後妻になつたといふのも不思議な繋がりを感じる。千人同心は甲斐武田氏の遺臣から構成されたといふが、松崎にも馬場姓の豪族があつて甲斐武田の流れ、すなはち武田四天王のひとり馬場信春の末裔とも言はれてゐるから、祖先が同族であつた可能性もある。ただし、千人同心に組み入れられたのは武田家臣團の中でも小禄の者たちだつたと思はれるので、信春とは家格が違つてゐたかも知れない。因みに松崎の馬場家と依田家との間には早くから姻戚關係はあつたやうである。
晝前Mさんと別れ、食事の後馬場家の菩提寺である圓通寺を訪ねた。今は無住の寺になつてゐるが、山門を抜けてやや斜め左に建つ本堂の目の前に馬場家の墓域があつた。墓石には幾つか碑文が刻まれてゐて、此れが大いに参考になつた。いままで不明だつた馬場家の家族構成や歿年、さらに生前の事業内容まで明らかになつたのである。探墓掃苔の樂しみと魅力を改めて感ずる。かうして尋ね當てて碑文を寫し撮る者があると知れば、墓を建てた人も草葉の蔭で喜んで呉れるのではないだらうか。
馬場家に關心のない人には無意味かも知れないが、せつかくなので讀み解いた刻文の翻刻を此処に掲げて故人の靈に報ひたいと思ふ。

馬場登志子墓誌
先妣諱登志子系出於依田氏初代直吉第二女也。天保五年生午松崎邨年甫十九嫁先考諱三代卯七挙三男三女中男中女夭。慶應三年先考病歿時先妣年三十四、家遭否屯自勵克黽夙夜匪懈深念爾祖切悲爾児營々掌理家政◽︎々訓育惟事慎身守節困苦不◽︎窮厄不閔惟貞惟信寡居四十四年猶一日遂使馬場氏有今日者實先妣之力是頼也。明治四十四年二月九日有病午後二時晏然逝享年七十有八會碩徳洪嶽禪師巡錫於田子邨乃請爲導師以其月十四日葬於此澤地新塋。嗚呼母氏長養之恩彌於普天憐児不肖末報涓埃慚懼無己敬爲斯文勒之于石欲使子孫後裔永不忌妣氏丕績也。
惠瑞陰森 死生夢幻
大正 年 月 日 孝子武四郎謹撰

智光院文良宗武居士墓碑銘
居士諱武四郎姓馬場氏三世卯七第三子母依田氏元治元年二月于伊豆松崎。別成家資性文于長經營之才壯歳住東京助兄郁太郎之事業兄頼以爲重兄嘗創炭鑛於北海道業半而歿明治四十五年三月居士往整理後事大正四年十月郷有事親戚胥議招請居士力疾上途沼津病愈篤遂不走實十一月九日也享年五十有二銘曰
友于切磋 經營是力 大◽︎百世 永仰遺徳
大正十年酉七月 長姉營子建之

父亡き後二男二女を育て上げた母を喪ひ碑文を撰した者が數年經たずして實姉に墓碑銘を刻まれる身となる。「死生夢幻」とは此の事であらう。合掌。