冬の季語

十二月三日(水)晴
此の季節太平洋側の地域は冬型の氣壓配置により、よく晴れ上がつた青空の朝を迎へることが多い。日の出が遅く太陽が低い位置を廻る為であらう、陽光は斜めに差し込んで目にまぶしい。急に冷え込んだ朝の通勤時、驛に向かふ路上や驛のプラツトホームに多くの女子高生の姿を見かける。此処數十年といふもの彼女らのスカートはずつと短めであり、それは寒い季節になつても變はらない。其の姿は溢れる若さを感じさせて健気にして可憐である。
夏の間運動部の部活で日焼けしてゐた太腿も、此の頃にはもとの白さを取り戻すのか、彼女らの生あしの白さは目映いばかりである。余は其の若さが剥き出しになつた白い脚の美しさを眺めることを此の季節の樂しみとする。フオルムとしての美醜は問はぬことにしやう。太くても短くても、若い生あしの白さは比類がないからである。其れは色の白さであるよりは、光を反射させる肌質の肌理のこまかさや幼さによるのであらう、白さの輝きとでもいふべきものになつてゐる。色の白い肌のあしはもう少し成長しても見ないわけではないが、はたちを過ぎれば女子高生時の生あしの輝きは失はれて二度と戻ることはない。恐らく、十六・七の女の子にのみ見られる、それも夏には見られぬ冬の晴れた日のみに現れる幻の輝きなのであらう。十八・九歳になればもう何かが變はり始め、だから一番すぐれているのは二年生の女の子たちである。朝日を浴びて反射する彼女らの生あしの白さ目映さは刮目に値する。
冬の朝、陽光で輝く女子高生の生あしは、余にとりて冬の季語なのである。