《津山藩醫井岡道安とその時代 ― その六 》

九、明和六年の東洞と京 補説

 前號の最後に、明和六年を一般には馴染のない時代ではないかと書いた。其れは主に文化史的な意味合ひでさう言つたのであるが、改めて考へてみると幕政史としては決して閑却されてゐる時代ではないことに思ひ至つた。すなはち、其の頃丁度田沼時代が始まつてゐたのである。
 年表を見ると、道安が吉益東洞の門に入つた明和六年八月に田沼意次老中格となり、明和九年に老中に昇進してゐる。それから天明六年(一七八六)に失脚するまでの十數年間幕府の權力が意次の手に握られてゐたことになり、それは道安が京に學び、それから江戸の津山藩邸に戻つて藩醫として過ごした時期に重なると思はれる。道安にとつての人格形成期と言つてもいい此の時期、時代の空氣は後の寛政期や晩年の文化年間と比べてかなり違つてゐたのではないかと思ふのだが、今のわたしにその違ひをうまく記述する力はない。
ただ、近年の史學の傾向として、田沼意次を單に賄賂に染まつた惡人とみなす其れまでの見方に對する批判や反省が多くなってゐて【注-一】、わたしも概ねさうした見解に同意してゐる。個人的な好き嫌ひだけで言へば、わたしは松平定信よりも田沼意次の方が好きである。定信も毀誉褒貶の激しい中々複雑な人物で、文化史的に重要な人物なのは確かであるが、『宇下人言』など讀むと殿様らしい獨善と甘さ、そして獨特な堅苦しさが感じられて、苦手にも嫌ひにも感じられる。此の二人についてはいづれ触れる必要が出て來ると思はれるので、其の際に詳しく調べることにしたい。
そこで、今はごく一般的な理解として、明和から安永・天明にかけての時代を、寛政期に定信によつて檢約や統制が進められた時代より、相對的に緩やかで自由な氣風の許された時代ではなかつたかと想像するに留めて先に進むことにする。道安に關はる醫學や連歌香道の状況を明らかにする中で、少しづつ時代の雰囲氣の移り變はりにも注目してゆくことにしようと思ふ。

十、東洞の醫説

 道安がどういつた學問に基づきどのやうな治療を施してゐたかを知る資料を今のところわたしは持たない。本人が書き殘したものはないし、津山藩の江戸日記に道安が診察した記録はあつても其の内容に關する詳しい記述はないからである。さうなると、まづは師である吉益東洞の醫説を見て、其処からさう遠くはないものとして道安の醫術を推量するより他はない。すでに儒醫のところで触れた事の繰り返しになるが、今少し詳しく東洞の醫論を見ていくことにしたい。
 東洞の醫説を要約してよく言はれることばとして、「萬病一毒説」と「天命説」がある。前者は前にも書いたやうに、あらゆる病氣は「唯一毒」に因るとするものだが、「留滯ハ毒ニシテ、毒ハ水糓ノ濁氣ノ成ル所ナリ、其毒動キテ萬病ハ發スル」と言ふことからして、毒は何か特定の物質といふより現象を把握する爲の作業仮説的な意味合ひが強いやうに思はれる。「萬病ハ唯一毒ナリ、ソノ毒ノ何ニ依テ生ズルヤヲ知ラズ、又何ニ依テ動クト云フコトヲ知ラズ、唯毒ノ所在ヲ視テ、治療ヲ加ヘ、敢テ病ノ因ヲ論ゼズ」とも言つてゐる。萬病一毒説を唱へながら、東洞は病因について論ずることをしなかつた。いや、病因どころか病名を特定することすら無用のものとして退けた。
其のことの是非を問はれて、「因を論ぜずといふ主意は憶見に落て治療なりがたく、殊に道を害する事あるゆへなり」と答へてゐる。原因に拘ることで治療の本旨を見失ふ恐れがあると言ひたいのであらう。病理の解明より實際に病を治すことを優先させる態度と言ひ換へてもよい。
一般に西洋醫學は人體の仕組みの理解や病氣の原因といつたメカニズムへの關心が強く病理學志向があるのに對し、漢方醫學は經驗論的であると言はれるが、それはこの東洞において顕著である。それ以前の後世派などは陰陽五行説に基づいた觀念論的な病理の理解を重視しており、東洞の言ひ方に從へば「理をもて病を論じ」る輩である。
そもそも東洞は醫家には「疾醫」「陰陽醫」「仙家醫」の三種があると言ふ。其の上で、諸病疾苦を治せるのは疾醫のみであるとする。陰陽醫は「病之所在を視ず、唯陰陽五行相生相剋・經絡等を以て病を論ず。皆臆見ゆへ手に取て治する事あたはず」であり、理に勝つた陰陽醫は病を治すことは出來ないと斷ずる。また、陰陽五行説による病理の説明は實際の病のあり様とかけ離れてゐるとして、その醫における意義を否定した。「陰陽は天地の氣なり。醫に取ることなし」と言ふのである。
もう一方の仙家醫は「氣を煉り、或は煉炭を服し、人をして造化にひとしくせん事を學ぶ」者たちであるが、こちらは行ふ人自体が尠いから害もまた尠いとも言つてゐる。
さうした陰陽醫や仙家醫に對し、東洞は『傷寒論』に基づいた實踐的な治療や施藥を専らとする疾醫たらんとした。病因病理の理解や解明、そして人體を理解する爲の論理的に一貫した理論や背後にある哲學的思想より、病氣を治すことを何より大切なことと考へたのである。ただし、東洞が『傷寒論』の中に見られる陰陽論的な思想まで否定したことは、さすがに行き過ぎであるとして、東洞の門人や子孫も後になると陰陽説をある程度認めるかたちになったやうである。
藥の使用をめぐる態度にも東洞に獨自のものがあつた。藥に關する漢方の傳統的な考へ方に瀉剤と補剤といふ二つがある。瀉剤は病氣を攻めるもの、補剤は氣力を補ふものとされる。後世派の特に金元李朱の醫學では温補といふ體を温め補剤で氣力を養ふ事に治療の主眼を置く爲、藥も比較的穩やかなものを用ゐる。此れに對し東洞は補剤を認めず、瀉剤のみを使つた。
「醫にして好んで補を言ふ者は、是れ容悦を以て人に事(つか)ふるものなり。恥づべきの甚し」(『東洞家約』)と言ふやうに、攻めに徹するのである。其処には漢方醫學の考へ方のひとつとしてよく知られる「醫食同源」といふ發想はない。むしろ、藥と食をはつきりと分けるのが東洞の考へ方である。
 「藥に攻(せむる)の意あり。食に養ふの意あり。攻るにはすききらひに拘らず、養ふには
すききらひにしたがふ」
「夫(それ)藥は體を養ふものにあらず。腹中の毒を取去るものなり」
「腹中に毒あれば食すゝまざるゆへつかるゝなり。其毒を取去れば食すゝみて體を養ひ
丈夫になるなり」
要するに體を養ふ爲の食餌と病を治す爲の藥を混同してはならないといふことであらう。此れを是とすれば、藥を以て氣力を養ふ「補剤」なるものは存在しやうがないのである。此の邉り、東洋醫學における「氣」とか「元氣」といふ概念の理解が不可欠なのであらうが、余りに煩瑣にわたるので此処では深入りしない。
ところで東洞は、さうして用ゐられる藥がまた一種の毒であることを強く認識してもゐた。「毒を以て毒を攻め、毒去れば病治すべし」とは、人口に膾炙する「毒を以て毒を制する」といふ言ひ方の東洞によるオリジナルの表現である。
 また言ふ、
「醫者の病を治するは藥なり。譬(たとへば)大將の士卒をつかふがごとし。其士卒に恐れ
ありて指引、心の儘ならざれば、軍(いくさ)は成がたし。病を治するもの其藥に恐ありて
用ゆる事自由ならざれば病も治せざるなり」と。
 東洞は症状の變化によつて藥をあれこれ變へることを戒め、同じ藥を用ゐ續けることの大切さを説いた。藥といふ毒で病の毒を攻めるのであるから、途中に「瞑眩(めんげん)」が起こるのは當然である。
 東洞は、
「相應の藥はかならず毒にあたり瞑眩して病治す。其毒にあたる時は氣色あしくなるゆ
へ、不相應なるやうにおもへども、能(よく)病の治するを以て相應の藥とおもふべし」
と述べてゐる。瞑眩とは、今のことばで言へば「好轉反應」であり、藥が効くことで一時的に病者の症状がかえつて重くなるやうに見えることを云ふ。それを見て藥を變へることは厳に慎まねばならない。「此毒は此藥にて治するといふ事を心に決定」して用ゐるからには、藥の選択でぶれてはならないのである。もちろん、東洞が藥を變へないのは自信があるからに他ならない。其の自信は「自家ノ實驗ニ出ザルモノハ取ラズ」といふ、安易に古い醫書を鵜呑みするのではなく、「親試實驗」によつて東洞が自ら確かめ得た方法に從つて、多くの病者を治癒に導いて來たことに拠る。
 その一方で、「死生は命なり、天より之を作す。醫も之を救ふこと能はず」とも、「醫者は只病苦を救ふのみにて、生死は天の司所(つかさどるところ)と治定すれば迷ふ事なし」、或は「死生は人の預る事にあらず」とも言ふ。すなはち「天命説」として知られる東洞の考へ方である。東洞は「盡人事而俟天命」といふ揮毫も殘してゐる。これまた世上に聞く事の多い「人事を盡して天命を俟つ」であり、それに對しては醫師の責任を囘避するものとして批判が當時からあり、天命説に關する論争は江戸時代の醫學論争の中でも最大のものであると言はれてゐる【注-二】。同時期に京にあつた畑黄山はわざわざ「天命」といふ言葉を使ふことの非を説き、亀井南冥は死生に與らないとは醫業の放棄に他ならぬと難じた。
 特に、東洞の場合瀉剤といふ激しい藥を與へるから、それによつて患者が死んでしまつた場合の逃げ口上のやうに取られて批難されることが多かつた。確かに、さう取られかねない突き放したものの言ひ方ではある。しかし、一方で「藥」と「食」を峻別したのと同じく、「病」と「命」に一線を引き、醫師が關はれるのは「病」のみであるとする態度には、認識として一貫したものがあるやうにも思へるのである。
 かうした東洞の考へ方や醫論を、井岡道安がどの程度受け容れ、或は引き繼いだかを知る手掛かりは今のところないが、とりあへず道安がかうした教へを受けたものとして、次囘は當時の醫師修業の實態について明らかにしてみたいと思ふ。【以下次號】
【注-一】例へば大石慎三郎田沼意次の時代』岩波現代文庫・二〇〇一など。明治以降に田沼惡人説が強固になる際に用いられた史料が、定信派が意次失脚後に書き殘したものに限られてゐることを舉げ、それらは意次を評価する上での史實とは爲し難いとしている。
【注-二】青木歳幸『江戸時代の醫學』吉川弘文館・二〇一二、八七頁。
《参考文献》東洞の著述・言説については富士川游『日本醫學史』、京都府醫師會編『京都の醫學史』思文閣(一九八〇)、『東洞全集』呉秀三富士川游 校定・思文閣・一九七〇、『近世科學思想・下』日本思想大系六三巻・岩波書店・一九七一[同書の解説「近世前期の醫學」(大塚敬節)も参照した]を参照・引用した