全体と部分

十月四日(金)陰
先日会社で全世界での売上を管理する部門の本部長が研究所に来て話をされた。要するに売上と利益をもっと出せるような社内体制を整備するという話なのだが、その中で「部分最適」と「全体最適」というふたつの言葉をあたかも対の概念であるかのように使っていた。一時よく使われていたので聞いたことのある人も多いだろう。よく聞く、とは要するにその意味するところをよく考えもせず、わかったつもりになるものだから、騙そうとする人は多用することになる。しかし、少なくとも会社のやろうとしていることを全体最適、今までが部分最適とする分け方には大いに疑問がある。
部分最適とは、話の中味からして各国の事業に特化し、その国での利益を優先するような仕事の仕方を言うのだろう。これは分かる。会社全体からすれば各国の事業とは部分に過ぎないからである。しかし、その部分がそれぞれ最適な仕方で仕事することがまるで問題であるかのようなこの語の使われ方が理解できない。全体とは部分の総和ではないのか。
もちろん、彼らの頭の中にあることはだいたい想像はつく。要するにリソースの現状での偏りを考えているのだろう。儲からないところに人が多く、儲かるところに人が少ないから、儲かるところで働いて稼げ、ということである。そうすれば全体の売上が上がるから全体最適だというつもりなのであろう。しかし、人が多くて儲からない場所は、具体的には日本であるが、これは多くなければ売上が上げられない市場なのではないか。儲からないと言って人を減らせば、売上も減って、もっと儲からなくなる可能性は高いが、それはまあ、経営判断だからよしとしよう。ただ、それを全体最適と言ってしまうことに、私は抵抗感があるのである。
まず、それで今まで人の少なかった場所に人をさいてそこが儲かるようになったからと言って、それは全体ではなく、その部分でしかない。そのことで「最適」感を味わえるのは、恩恵に浴したその「部分」と、部分の総和を管理する「部門」に過ぎない。つまり、一部の部分が最適化されることで犠牲になる部分が出る以上、それは「全体」ではないのである。全体を絶対視する全体主義が蔓延(はびこ)れば、我こそが全体を代表する部門であるという、内部の抗争が激化するだろう。そしてそれが病巣となって、全体そのものが崩壊するのではないか。
とは言え、本部長のやろうとしていることが間違っているかどうか、それは私にも分からない。自分の属する「部分」の現状が良いとも思っていないので、改革は必要だとは思うし、私自身もちろん会社の発展を願わないということはない。ただ、これからやろうとしていることを全体最適という言葉を使って我々を納得させようとしているのであれば、それは違うでしょうということである。各部分を最適化することで、その総和として全体が最適化されるというロジックなら理解できるし、そうあるべきだと思うが、部分最適全体最適を相反する概念として使う限り、私は全く納得しかねる。まずは各部分を最適化して貰いたいという気持ちで一杯なのである。