《津山藩醫井岡道安とその時代 ― その四(上)》

一月四日(日)晴
五、儒と医の關係 (承前)

 その修庵の晩年に師事したのが甲州の五味釜川で、儒醫一貫を持論とした。儒を太宰春臺に學んでゐるから、修庵と同じく儒學の師と儒醫に關する見解を異にしたことになる。釜川に醫を學んだのが柳莊山縣大貳である。山縣は修庵の儒醫一本論を採り、修庵が自らを「聖賢儒中の醫」と称して非難された際には修庵を辨護して醫たるもの須らく聖賢儒中の醫にあらざれば不可なることを主張した。この一本論とやや論旨の似るものに大田錦城の儒醫一理説がある。すなはち、儒者は精神の病を治し醫者は肉體の病を治すものであるから倶に治病の職であり、また生殺の權力を握る點で儒醫は一理であると看做したのである。
其の一方で、醫の學は深遠であり、古今の方書や本草家の書に通暁する必要があり、その爲には漢籍を自在に讀めなければならず、其の讀解力を養ふ爲に儒の力を借りるとするのが、信州高遠藩の中村中倧である。独逸の高度な醫學書を讀むための独逸語の學習にカントやヘーゲルを用ゐるといつた趣きである。個人的には、案外この醫學書を讀む上での漢學の素養の必要性といふものが、儒と醫を結びつける一番大きな要因だつたのではないかと思つてゐる。漢方の醫書や本草の圖書は、つまるところ陰陽五行説や中國古代哲學を下敷きにしてゐるのであるから、語學の上でも思想の面でもそれらに通じてゐなければ理解出來ないだらうと思ふからである。さう考へると独逸の醫學と哲學の關係よりも、古代希臘に於ける醫學と哲學との關はりと比べた方がわかりやすいかも知れない。詳しく調べた譯ではないが、ヒポクラテス流の希臘醫學に古代希臘哲學の豊饒な實りの影響があることは想像出來るからである。
 幕末から明治に生きた阪谷朗廬になると、時代の變化に對應しきれなかつた儒學に嚴しい目を向けるやうになり、儒はかつての儒者の志を失つたのに對し醫は依然として醫者の爲すべきことを爲してゐるとして醫を儒の上に置く。「百年儒なくも可にして一日醫なかるべからず」である。但し、近代の醫者が儒書を讀んでもただ應用するだけで、儒學本來の道を自ら體しやうとしないことへの批判も忘れてはゐない。時代の推移による儒醫觀の變化が見てとれて興味深いが、儒醫なるものは明治になって西洋醫學の移入により絶滅する。醫師の國家資格制度が漢方醫を完全に圏外に置いたからである。遅れて來た「醫學博士」鷗外森林太郎が、澀江抽齋や伊澤蘭軒といつた儒醫に關心を寄せて史傳を書き始めるのは大正になつてからの話である。
 以上、儒と醫の關係をめぐる儒者たちの見解を見て來たが、『日本儒醫研究』の著者安西安周はそれらを踏まへて、儒醫についてまとめてゐる。まづ、儒者に對して醫を專らにするものを「疾醫」と呼ぶ。儒は國を治めることがその任であるから、業として重く大きい。地位も自づから高く、これを上醫となす。一方の疾醫は人の病を治めるものであつて、業として賤小、地位は低く下醫とする。儒醫はその間にあつて中醫と呼ぶべき存在ではないかと安西は問ふ。そして儒醫の本分は治療よりも予防醫學にあるとも考へてゐる。また、上中下の醫が礎とする原典は、儒が六經であり、儒醫が黄帝内經、疾醫は傷寒論であると言ふ。後者ふたつの書は、この後日本の醫學を概觀する際に説明を加へる予定である。
 儒との關係がどうであれ、近世の日本に「儒醫」と呼び得る人たちが多くゐた事は間違ひなく、その儒醫のあり方についても安西は「儒者にして醫業を兼ねたるもの、醫人にして儒員となりたるもの」の他に「儒者にして醫學的著述のあるもの、醫人にして儒學的著述のあるもの」を加へて四種類を挙げてゐる。異論はないので、そのやうなものと理解して先に進むことにしたい。

六、儒學に於ける學統學派

 儒學に學統とか學派と呼ばれる流派があることは知られてゐやう。朱子學と陽明學はその最大派閥といふべきものであるが、それ以外にも學派がある。儒醫を語るのに、その學統まで知る必要があるかといふ意見もあらうが、實は醫學の方にも學統があつて、そのあり様は儒學の學統とも密接な関係を有してゐるので、一通りは目を通しておく方がよいと思はれる。さういふものだつたかと思ひ出す程度の、教科書的な簡單な説明になつてしまふが、主に安西に從つて他の文献も参考にしながら触れてみることにしたい。【注-一】
 儒學は古代中國に生まれた修身治國平天下の道を説く學問であり、孔子によつて集大成されたものであることは言ふまでもない。ただし、日本に渡來するにあたり、また時を經て受容されるに從つて、中國の儒學とは異なる日本化した儒學へと變容していつたであらう事も疑ひを容れない。ここで扱ふのは従つて日本の儒學、それも近世のものであるが、學統として大きく分けて四つないし五つの學派が知られてゐる。朱子學派、陽明學派、古學派、考證學派及び折衷學派である。この他に水戸學派を全く別のものとして數へることもある。
朱子學は南宋朱熹に始まり、理氣二元論を柱に極めて哲學的密度の高い儒學であると言はれる。朱子學派はまた、藤原惺窩から林羅山、そして幕府の官學へと繋がる京學系と、僧桂庵に始まる薩南派、そして南国土佐の南村梅軒に始まって後に山崎闇齋に傳はる海南派(南學)に分かれる。京學系と林門系を分けることも、南學を後繼者たる山崎闇齋の特異な學風に代表させて闇齋學派或は崎門派と呼ぶこともある。さらに大阪懐徳堂を中心とした阪學派や貝原益軒の學統を別派に立てることもあるやうだ。
陽明學は明の王陽明が起こしたもので、知行合一説で知られ、唯心論的であり徳行の実踐を重んずる。日本の陽明學派は中江藤樹に始まり、熊澤蕃山へと繋がり佐藤一齋、大鹽中齋を出し、後には横井小楠佐久間象山吉田松陰といつた英傑を出した。維新の志士に陽明學の感化を受けた者が多かったことはよく知られてゐる。
これら後の時代に行はれた言説をもとにした學派に對して、孔子の源流に戻らうとしたのが古學派である。古學派は山鹿素行の學派、伊藤仁齋の堀河學派ないし古義學派、そして荻生徂徠の古文辞學派、またの名を蘐園學派の三つに別つことが多い。素行は漢唐宋明の學を斥け、特に朱子學を排撃した爲幕府の忌諱に触れ著作が毀版となつて古學上の著述が普及せず、道統を繼ぐ者に恵まれなかつた。その思想の一部分であつた兵學が山鹿流として今に知られる。
伊藤仁齋は素行とほぼ時を同じくして、それまで奉じてゐた朱子學に佛教や道教の思想の混入を認めるに到つてこれに背き、論語孟子の古義に立ち歸るべきであるとした。宋學の理氣二元論に對し宇宙元氣一元論を立て、古義の研鑽に努めるとともに、聖人(孔子)の人格に尠しでも近づかうと仁義の道の實踐を目指した。子孫にその學統を繼ぐ者を多く出すと同時に、並河天民、松岡恕庵、稲生若水といつた異才の門人を輩出したことで知られる。
徂徠も初め朱子學を學び、後に明の修辭派の古文辭を修め、前漢以前の古語の研究によつて古典の本旨を汲むべきであるとして古文辭學を唱導した。また、宋儒や仁齋が仁義を重んじたのに對し、徂徠は礼樂をもつて道となし、功利主義的な立場から廣く諸學藝を修めることを善しとした。四天王と呼ばれる山縣周南、安藤東野、服部南郭、太宰春臺の他多くの濟々たる文人や學者を出し、享保から天明にかけて蘐園の學派の勢力他を壓するものがあつた。
朱子學・陽明學・古學の三學派は江戸時代中期にあつて大いに伸長したが、自説に固執するあまり偏狭に陥り相互に批判攻撃し合つて勢力を爭ふかの如き様相を呈して來た。折衷派はさうした三學派が學としての統一感を失ひかけてゐたことへの危惧から、各學派のよい處を採つて折衷したものと言はれる。中でも最初に徂徠學を學び徂徠を崇敬しながら、後になつて徂徠學の反動として徂徠から離れて冷静に高所より各學説を比較檢討するやうになつたのが、宇野明霞、井上蘭臺、片山兼山、井上金峨らである。
折衷派の中から考證學派が分派したが、他の學派に比する時考證學派と折衷學派は主張も基本姿勢も近いため折衷考證學派とも呼ばれ同列に扱はれることが多いやうである。考證學派は、訓詁を漢・唐から採り、義理を宋・明より撰擇した井上金峨に始まり、清朝の考證學を導入した太田錦城に至つて學派として確立される。同様の主張をなす者に亀田鵬齋の系統や京の皆川淇園の流れ、細井平洲そして廣瀬淡窓の一派などが出た。また、松崎慊堂、狩谷掖齋、伊澤蘭軒、近藤正齋、安井息軒らも考證學派に屬する者とされる。この折衷考證學派についての後世の評価は「往々考證のみに没頭するものもあり、またその主張に門戸の見がないから、おほむね客觀的公平と正確を期してはゐるが、その反面著しい特色がなく、徒らに博覽に努めて自己独特の思想的定見が淺く、獨創性に乏しい」(『近世藩校に於ける學統學派の研究』)といふことに盡きやう。言ひ換へれば、折衷考證學派に至つて儒學は鮮烈な生氣を失つたのである。
 各學派は私塾や藩校で弟子を教育することにより、自らの學統の後繼者を増やして行くことになるが、何人かの師についたり、幾つかの塾を歴遊して独自な思想を練り上げてゆく者も少なくなかつた。その一方で、同じ學統に屬する者同士や師弟の關係は緊密であり、日ごろの交際から就職の斡旋に至るまで佑け合ふことも少なくなかつた。自分の撰んだ學統の學問としての正しさや優位性をも信じてゐたであらうから、屬する學派の勢力擴大に努めるやうになるのは當然の成り行きである。その最も激越な例が、惡名高き寛政異學の禁である。これによつて朱子學のみが官許の學問となり、各學派の勢力分布に變化が起こるが、實際に朱子學派が壓倒的な多數派を占めるのは天保以降である。その學統を繼ぐ儒官を増やすのにはそれなりに時間がかかり、異學の禁が即座に朱子學派の席捲を招いた譯ではない。
 各藩の儒官を屬する學派ごとに調べたものがある【注-二】。それを見ると、江戸時代の寛永から明治四年までの間に合計二、二二八名の儒官が居り、一、〇九九人が朱子學派に屬する。過半數に達してゐないが、天保から慶應の時期に限れば六五七人中四四〇名となり、三分の二以上を朱子學派が占める。寛政異學の禁の効果が如實に表れたのである。ただし、寛政異學の禁については、学問彈壓といふ意味合ひより寛政の改革の一環として学問の奨励や統制の政策として捉へ、それが齎(もたら)した教育水準の底上げが日本の近代化を準備したといふ點で、近年では積極的に評価する向きもあるやうである【注-三】。
 各學派の勢力を細かく見ていくと、時代による學派の消長や特定の儒者の影響力などが分かつて面白いが、挙げていくときりがないので幾つかに留めて紹介する。まづ、林家の系統や昌平黌の學派が多數派を占めるのは當然にしても、徂徠學派は江戸通期合計で一九四名とそれなりの存在感を示してゐるし、享保天明期に一二一人の多きを數へた闇齋學派に至つては、通期で二九三と、林家昌平黌の官學派に次いで單獨で二番目の勢力を誇つてゐる。闇齋に關しては、江戸の思想を解く鍵になるであらうといふ漠然とした印象はあつたものの、かうした影響力の大きさから考へて、いづれ真剣に取り組まねばなるまい。それと、陽明學派が數にすると極めて少ないことにも驚いた。江戸を通じて二一人のみである。もつとも『近世藩校に於ける學統學派の研究』に據れば六十名となり大分數が違ふ。師や學んだ塾や藩校だけでは學統や學派を定め難いこともあるのであらうが、それにしても陽明學派が他派に比して多くはないのは確かなやうで、それでゐて存在感があるのは、この學派から名の知られた俊英が多く出てゐるからであらう。
 ちなみに、それら儒官の出自に目を轉ずると、藩醫の家の出の者が三九人ある。家學としての醫を學んだ上で儒官となるか、或は両者を兼ねる儒醫が、全體の中の割合としては決して多くはないが、確かに存在したことがかうした數字からも讀みとることが出來る。なほ、出自の中には民間、すなはち武士以外の身分から新規に登用された者が八一名ゐたことが知れる。藩儒は身分としては士分であり、藩醫も同様であつて、身分社會といはれる江戸時代にあつて身分上昇の可能性が儒と醫に開けてゐたことは特筆すべきことのやうに思はれる。
 ところで、われらが井岡道安はどの學統に屬してゐたのであらうか。殘念ながら今のところ道安の儒學の學派はおろか、儒學醫學ともにその師すら判明してゐない。義父井岡友仙の本草学の師や、息子の櫻仙が師事した醫師と本草家は分かつてゐるのに、道安に關しては香道の免許皆傳を與へた濱嶋等清の名が知られるのみで、その濱嶋にしたところで何処の誰やら皆目見當がつかない。今後の調査を待つより他はない。ただ、道安と同時期の津山藩藩校の儒官の陣容とその學統は分かつてゐるので紹介しておく。
 津山藩は明和二年(一七六五)といふ比較的早い時期に學問所と稱する藩校を設立してゐる。津山藩五代藩主松平康哉の命による創設と謂はれるが、この年康哉は家督を繼いでゐたとは言へ十三歳に過ぎない。其の時學問所教授として論語講釈を行つたのが、前年に江戸で熊本藩主細川重賢の薦めによつて津山藩に出仕することになつた大村蘭林といふ人である。蘭林は号、通称を荘助と言つた。享保九年(一七二四)肥後に生まれ、寛政元年(一七八九)に没してゐる。山崎闇斎の流れを汲む同郷の西依成齋に學び、闇齋派すなはち崎門朱子學を信奉し、津山藩に闇齋の學風を根づかせることに成功したと云ふ。子の成美も津山藩の藩儒及び學問所教官の地位を繼いでゐる。
 道安は文化二年(一八〇五)に没したことしか分かつてゐないが、松平康哉、康乂二代に仕へたことは間違ひなく、仮に没年のとき六十歳だつたとすると明和二年には二十歳となり、大村は少し上の世代だつたことになる。醫業を身につけるのに相當な時間を要したであらうし、もとより江戸詰めであるから津山の藩校設立に殆ど關はりはなかつたものと考へられる。藩の主流が闇齋學派になつたとは言へ、大村荘助に學んだとも考へにくいから、道安が崎門であつたといふ推測も成り立ち難い。
學問所の創設時には、他に飯室武仲や折衷學派の山下西涯(一七四九‐一八〇三)やの名が知られてゐる【注-四】。西涯は寛政異學の禁の際に柴野栗山へ禁令に反對する旨の書簡を送つたといふ硬骨漢であるが、學問所開設時には十六歳であり開設時に参畫したとは思へない。世代的には道安とほぼ重なる西涯が折衷派であることから、大村蘭林の影響が強かつたのは確かにせよ、學問所および藩内が闇齋派で統一されてゐた譯ではないことが窺はれる。要するに、藩校教官の學統からしても、道安の學んだ儒學がどの系統なのか今のところ全く不明といふことになるのである。