《津山藩醫井岡道安とその時代 ― その四(下) 》

一月五日(月)晴
七、醫學に於ける學統學派

 儒學に學統學派があるやうに、醫學にも同様のものがあつた。こちらは儒學と違つて一般には知られてゐない事が多いと思ふので少し詳しく見ていくことにしたい。ただし、道安に直接繋がる可能性の低い蘭方醫學についてはここでは触れず、いづれ別の形で紹介することにする。學統の名稱としては、「後世派(ごせいは)」「古方派」「考證派」「折衷派」の四つを『日本儒醫研究』は挙げてゐる。儒學との對比でいふと、後世派は朱子學派、古方派は古學派にほぼ相當し、考證派や折衷派はその名を同じくする儒學の學派とその儘パラレルな様相を示す。
 今日、漢方醫學と呼ばれてゐるものは、古代からの中國醫學をもとに江戸期に日本で体系化された、日本独自の醫學である。その源流は戦国時代末期の曲直瀬道三に求められる。道三は當時にあつて最新の中國傳來醫學であつた李朱醫學を、明から歸國した田代三喜に學んだ。中國では唐以前に遡る醫學を經方或は古方と呼び、宋以後を新方或は後世方と言ふ。後世方に金・元の時代に至つて四人の名醫が出てふたつの潮流を作る。ひとつが劉完素と張從正の劉張醫學であり、他方が李東垣と朱丹溪の二人による李朱醫學である。日本の漢方醫學はこの後者の系統といふことになる。
ルイス・フロイスに日本一の名醫と謳はれた道三は江戸幕府の成立前に没するが、養子玄朔から續く曲直瀬家が後に千九百石の高禄を以て幕府の典医に迎へ入れられたことは既に見た通りである。温補と呼ばれる、氣を養ふことで體力を囘服させて治癒に導く比較的温和な治療法をとるのが李朱醫學であり、曲直瀬流の「後世派」はその流れを汲む。道三・玄朔は啓迪院(けいてきいん)といふ醫學校を開いて門弟の育成に努め、門人の數は六百人近くに上つたと謂ふ。宋以降に現れた李朱醫學を採り入れた點が、南宋朱熹の思想に始まる朱子學派と相貌が似る所以である。
その後世派が元禄に至つて漸(やうや)く、道三や玄朔の処方を盲信し、陰陽五行説に基づく空理空論に堕する傾向を見せ始めた。此処に於いて旧弊を破るべく起こつたのが「古方派」と總稱される學派である。その主張は李朱醫學より時代の古い、後漢末から三國時代にかけて張仲景が編纂した『傷寒論』に戻つて、その理論と処方を以て治療を行ふといふものである。中國の古典に立ち返るべきであるとした點で儒學に於ける伊藤仁齋の古學派と通ずる。儒と醫がともにほぼ同時期に、復古の志向性を持つ學派の出現を見たことは、儒醫といふ存在のあり様を見て來たわれわれにはとりわけ興味深い。
古方派或は古醫方とも、仲景派とも呼ばれるこの學派の開祖は、一般的には京の町醫者であつた名古屋玄醫とされる。玄醫は、實際の診斷に基づかない後世派の姿勢に疑問を持ち、『傷寒論』の實證的な治療法を善しとした。温補の濫用によつて適切な治療を爲さない事の弊を説き、またすべての病は寒に因るとする萬病寒氣説を展開した。もつとも、『日本儒醫研究』では古醫方の祖として並河天民の名を挙げてゐる。天民は仁齋の門人で、儒者としても名高い儒醫である。仁齋と同じく復古の學であり、傷寒論を尊信すべきと説いたところから、天民を祖として松原一閑齋が繼ぎ吉益東洞によつて古方派が大成されたと安西安周は見るのである。世代的には玄醫が天民に半世紀程先んずる。
 いづれにせよ、安西によれば古方派は傷寒論に法と方を求めたものと定義される。この「法」と「方」なる用語は中國醫學に基づく獨特な概念なので少しく説明を要する。儒學に四書五經があるやうに、中國醫學にも依據する特権的な原典が存在する。『黄帝内經(こうていだいけい)』と呼ばれる書かそれで、「法」すなはち醫の基礎理論や法則を説くものとされる。現在『黄帝内經』の名のもとに傳はるのは『素問(そもん)』と『霊樞(れいすう)』で、「素問」は特に基礎理論や施治の法を扱ふ書と云はれ、「霊樞」は今日言ふところの鍼灸の理論を述べたものとされる。一方の「方」は臨床的記述或は藥の処方を内容とし、『傷寒論』を始めとする方書があつた。さらに方には、唐以前の古方(經方とも云ふ)と、宋以後の新方に分かれ、この新方の別名が後世方であり、後世派が準據した李朱醫學はこの系統を引く。傳統的な中國醫學では法と方の典據をこのやうに分けてゐたのだが、日本の古方派では『傷寒論』一書の中に法・方ともに備はるとしたところに特色があつた。
 古方派を大成したのが、先にも述べた吉益東洞である。安芸の出身で京の東洞院に開業した東洞は、陰陽五行説に拘泥して病因を観念的に理解しやうとする態度を退け、あくまでも實證を重んじたといふ。名古屋玄醫や後藤艮山の影響を受け、やはり『傷寒論』のみが信頼に足るとし、また玄醫と異なり萬病一毒説を唱へた。元禄一五年(一七〇二)に生まれた東洞は安永二年(一七七三)に没したが、長男南涯が吉益家を発展させ、父の萬病一毒説を修正、修飾して氣血水説を唱道した。すなはち、人體内には氣と血と水が還流してゐるが、毒がそれらに乘じて循環を停滞させる事で病が生じるとする。畑黄山や望月鹿門、亀井南溟など反對する者の多かつた萬病一毒説に理論と實證性を與へ師の説を補強した譯である。これが今日まで傳はる漢方の代表的な病理論であると謂ふ。南涯は門人の育成にも努め、寛政末から文化年間にかけての南涯在世時に吉益家への入門者數が最も多かつた【注-五】。吉益門の弟子はのべ三千人に達すると云ふ。名を成した門人も尠くなく、賀屋澹圓、中川修亭、和田元庵等が著名である。
 三つ目の學統である考證派は、既に説明した法と方について各々ひとつを以て正當とするのではなく、四種類すべてを考證の対象とした。すなはち、『黄帝内經』からも『傷寒論』からも法として抽出すべきはこれを採り、方に於いても唐以前の古方であらうと宋以降の後世方であつても、實際に効果があればこれを採用するといふ姿勢である。儒學に於ける考證派或は折衷派の主張と同じく、極端な説の中にも幾分かの眞理はあるのであるから、先哲諸子の説を恣意的な區別を設けずに公平に参酌して折衷することが肝要と言ふのである。考證派の別名を平等派とも呼ぶ所以である。
 『日本儒醫研究』の著者は、この派の嚆矢を名古屋玄醫に求めてゐるが、富士川游は望月鹿門、淺井圖南の名を挙げ、次いで福井楓亭、多紀桂山に言ひ及んでゐる。考證派の名が示す通り、この派には醫書や方書に通じ、それらを聖典としてではなくあくまでも文献として書誌學的に考證する事に秀でた者が多いのを特徴とする。その中心は、幕府直轄の醫學校である江戸醫學館の督司を務めた多紀家の人々とその門弟であつた。
 多紀氏は『醫心方』を著した丹波康頼の末裔と謂ひ金安を姓としてゐたが、元孝に至つて多紀氏を稱した。代々幕府醫官の職にあり、元孝も延享四年(一七四七)奥醫師となる。明和二年(一七六五)には家塾躋壽館(せいじゅかん)を創建する。元孝の子で名を元悳(げんとく)、號を藍溪(らんけい)といふ者が家塾の規模をさらに擴大し、寛政三年(一七九一)には躋壽館が官學となつて醫學館と名を改める。此処に至つて多紀家は儒學に於ける林家に等しい地位を醫の世界で得たことになる。藍溪の子が元簡(もとやす)であり桂山と號した。この桂山が井上金峨に儒學を學んだことから、金峨や太田錦城の考證の學風を醫に移し、「博く歷代諸家の著書を採り、衆説を条陳し、精義を斟酌し、考計精詳、引據宏博にして一に偏執の説を爲さず」(『日本醫學史』)といふ學派を立てたのである。
 桂山の子に元胤があつて醫學館督司を繼ぎ、また五男の元堅は醫學館教授となつて別家を立てた。子孫もその地位を襲ひ多紀家の勢力は江戸後期にあつて隱然たるものがあつた。學派の性質上、多紀氏には著述が多く、また考證や書誌學的研究の成果として古典醫書の校訂本刊行の事業も多く行つてゐる。其の點は後世に殘る考證派の業績である。その一方で、考證穿鑿が過ぎて其の醫説は平凡なものとなり、しかも醫學館督司として醫書出版の檢閲權を世襲してゐた爲、蘭書の翻譯を始めとする多學統の刊行を露骨に妨害するなど、後の醫學史家からは守舊派の牙城として批難を免れない。多紀家の榮光には闇が伴つてゐたのである。
 醫學館の教授に考證學的研究と臨床的醫術ともに優れた目黒道琢といふ人がゐる。その門人に鷗外が史傳で扱つた伊澤蘭軒があり、その蘭軒の弟子が澀江抽齋である。鷗外の史傳を愛讀するものにとつて、醫學の古典籍を方々に求めては其の書誌を閲(けみ)する姿は馴染の深いものであらう。ちなみに井岡道安の息櫻仙も醫を道琢に學んでゐるので蘭軒とは同門といふ事になる。實際年齢も櫻仙が一年長じてゐるだけであるが、五十三歳で没した蘭軒に對し櫻仙は七年ほど長命を保つた。櫻仙と蘭軒に交流があつたか否かは興味あるところであるが、『伊澤蘭軒』を讀む限り両者を結びつける糸口は醫學館に學んだこと以外に見つからない。
 醫者としての考證派については、多くの醫學史家が批判的であり、富士川游は「再び歩を蒙昧の中に退けし」と停滞を惜しみ、青木歳幸も「實證的な醫療の實踐に欠けてしまつたために、近代には西洋醫學に敗れ去ることになつた」(『江戸時代の醫學』)と手嚴しい。事實幕末になると幕府の醫療現場に於いて蘭方醫の進出により嘗ての勢力を失ふことになる。これは正に、儒學に於ける折衷考證學派に起こつた事と相似を爲す。
 最後に、折衷派についても触れることにしやう。安西によれば、折衷派は平等派の考證學派と異なり差別的であることが要件であると言ふ。すなはち、法は傷寒論を主として内經を從とし、方に於いては古方を主として新方を從とするのである。法・方の四種を採ることは考證派と同じであるが、それらに価値の差を認めない考證派に對し、傷寒論と古方を主としながら、その足りないところを内經と新方で補ふといふことであるらしい。この派の先駆として安西は長田徳本を挙げ、大成者を後藤艮山であるとする。安西説から多くを引く服部は、望月鹿門、山田圖南、福井楓亭、中神琴溪の名をこの派に屬する者として挙げるが、富士川は中神を古醫方の改革者と見る。各々の醫に關する著述や文章に當つてその主張が安西の定義に適ふかどうか調べる譯にも行かず、またその能力もないので、此処では安西の説を紹介するに留める。富士川游は折衷派を考證學派とほぼ同義とし、折衷派としては寧ろ古方醫から起こつた漢方と蘭方を折衷する動向を考へてゐた。
漢蘭折衷派および蘭方醫の活躍やそれらの醫學界への浸透については、とても興味をそそられるテーマではあるが、當面道安から遠く離れることが明らかなので今は追はない。いづれ解剖の「流行」の中に道安が呑みこまれた、最初に触れた津山での腑分けについて詳しく調べる際か、宇田川家や箕作家について触れる際に蘭學や蘭方醫學について概觀すべき機会もあらうかと思ふ。
ここで、井岡道安の醫學に於ける學統を檢討してみたい。われわれが先に想定した道安の生没年からすると、多紀桂山がほぼ同世代になる。本格的に桂山が考證を始めたのが晩年の享和年間、すなはち一九世紀に入つてからだとすると、道安が考證學派に屬するとは考へにくい。ただ、息子の櫻仙が醫學館に学んだことから、後に本草学者として名を成す櫻仙が考證學派の書誌學的な方法論を採用してゐた可能性は高い。道安も醫學館か多紀氏系の塾で學んでゐた可能性がない譯ではないが、今のところそれを裏付ける手掛かりはない。
 それでは古方派か。確かに、道安の修行時期を寶歴から明和にかけてだとすれば、東洞および南涯が多くの門人を教へてゐた時期と重なる。幸ひ「吉益家門人録」なるものが東京大學醫學部圖書館の呉秀三文庫に藏されてゐることが、今囘の醫學史を廻る讀書で明らかになつた。考へて判明する類の問題ではないから、近いうちに出掛けて確かめてみたいと思ふ。其処に井岡道安或は中嶋三折の名前が無ければ、また別の可能性を探るしかない。尠しでも道安の實像に近づく爲に勞力を惜しんでゐる暇は無ささうである。【以下次號】
【注-一】儒學の學派學統については、『日本儒醫研究』の他次の諸書を参考にした。
・『日本學校史の研究』石川謙・日本圖書センター・一九七七  ・『日本の朱子學』土田健次郎・筑摩書房・二〇一四
・『近世藩校に於ける學統學派の研究』笠井助治・吉川弘文館・一九七〇
【注-二】『日本學校史の研究』二五六頁〜二五九頁
【注-三】たとへば衣笠安喜『近世日本の儒教と文化』思文閣・一九九〇参照。
【注-四】『近世藩校に於ける學統學派の研究』一一一九頁
【注-五】醫學の學派學統については、『日本儒醫研究』の他次の諸書を参考にした。
・『江戸時代の醫學』青木歳幸・吉川弘文館・二〇一二   ・『日本醫學史綱要』富士川游・平凡社東洋文庫・一九七四
・『醫學の歴史』小川鼎三・中公 新書・一九六四  ・『江戸時代醫學史の研究』服部敏良・吉川弘文館・一九七八
・『中國名醫列傳』吉田荘人・中公 新書・一九九二  ・『日本醫學史決定版』富士川游・形成社・一九七二