かをりをりのうた 10

二月朔日(月)陰

このごろのしぐれの雨に菊の花散りぞしぬべきあたらその香を
桓武天皇

いつもながら季節はづれの撰歌で恐縮である。「しぐれの雨に菊の花」が實に良い。それだけで菊の香りを感じられるではないか。ただし、私は菊の花の香りがどうしても好きになれない。辛氣くさいといふか、葬式を連想するからなのであらうが悲しい氣分になるのである。いや、實を言へば菊の花を愛でる文雅な趣味自體が理解出來ないのである。文人の好む花として、蘭や梅、牡丹あたりは好きなのだが、陶淵明が好んだといふ菊だけは、地味でもあり陰氣くさくて好きになれない。それなりに綺麗だとは思ふが、世の菊狂ひの人々の狂騒が理解出來ないのである。重陽の菊花とか菊花酒といつた風流も中國趣味に過ぎるのかどうも馴染めない。菊の紋章は圖案としては秀逸だと思ふが、やはり皇室とか宮内庁とか國家権力といつたものを想起させる力が強すぎて好きになれないといふこともある。それなら何で撰んだと言はれさうだが、要するに「しぐれの雨に菊の花」に尽きる。下の句なしで第三句までを發句として讀んでもかをりを感じるし、五七五でしつかり俳句になつてゐるではないか。後から念を押すやうに「香」の字を出されると鬱陶しく三句で止つてゐれば仄かに香るだけで水分を含んだ菊の花びらのテクスチヤーをしつとりと感じられて余程良い。時にわざわざ「香」を言はない方がかをりを感じさせる歌もあるのである。