哀しい色調

八月十五日(月)陰
南ドイツの都市を訪れている。丁度、町を挙げて女流画家ゼルダ・フッテンバーグの回顧展が各所で開かれており、私はそれを目当てに彼女の生地でもあるこの町にやって来たもののようである。内省的な色調と、ウール素材の衣類の質感の描写に定評がある。私とは精神の波長が合うものか、見ているうちに彼女の心理が痛いほどわかってむしろ胸が苦しくなってくる程である。とある小さな美術館に入ると彼女の代表作が掛けられていて、館員らしい青年がツイードのジャケットやその下のざっくりしたウールのセーターのテクスチャー、そしてスカートのフェルト地のぼんやりしたプリント柄の質感などを称賛するのだが、そこではないと私は思う。何よりも色調に哀しみが込められているのだ。その美術館を後にして、私はメトロに乗り込む。走り始めると電車が通るトンネルの両壁面には、今見て来たばかりの絵が拡大されて延々と続いている。私は絵の中のウールの網目の中に入り込んだ小さな虫のような気分になって、眩暈を覚えて思わず車内でしゃがみこむ。こんな時、親友の旦那が介助するように私を抱きすくめてくれ、それがきっかけでその男と寝られたらいいのにと思う。すると実際にしゃがんだ女を抱きかかえる男がいて、それが他ならぬ自分であることに気づく。やがてメトロはターミナルに着き、私はひとりで降りる。南ドイツの空気に堪えがたい思いがして、北イタリアに逃げ出したいと思ったのである。ここからだとスイスを抜けアルプスの下を抜けて行くのだと思うと、改めてゼルダの絵の色調にこめられた悲哀が胸に迫る。
駅の構内は何本もの線路がループ状に取り巻き、プラットフォームはなくみな平場のまま止まっている列車に乗り込むようになっている。イタリア行と思われる列車が入って来て、ループをぐるぐる回り始め、おそらくあの辺りに停車するのだろうと目安をつけて移動する。しかし、そこには11時24分と出発時刻だけが表示されてあるだけで、どこ行きかの表示もなく案内放送もない。不安なので案内所のようなところに行くと東洋人らしい若い男がひとり居て、私が英語でイタリア行の列車かどうか聞くのだが、眉間に皺を寄せてお前の発音ではてんで聞き取れないといった表情である。今度は私が語気強く「イタリー」とだけ言うと、それはここの駅からではなく違う駅からだと冷笑を浮かべて言う。そして地図を出してその駅を示してくれるのだが明らかにそれは誤った情報である。あからさまな、東洋人による東洋人に対する侮蔑なのだが、考えてみると最初から私の方にもなんでこんな東洋人に聞かなくてはならないのかという不愉快さがあったようにも思い、またここで怒った方が負けだと思い、笑顔で礼を言ってから事前に調べた情報の入ったファイルを出し、やはりこの列車で間違いないことを確認してから列車に乗り込む。列車は片方の四分の一程度は扉が上にはねて荷物が積みこめるようになっていて、残りの部分が客室となっている貨客車で、良いアイデアだとは思ったが、荷物の有無と客室の混み具合などで重量のバランスが取りにくいのではないだろうか。私は先頭の車両にある飲料の販売ブースに行ってジュースを買おうと思っている。