變な聲

十月十日(水)晴後陰
社史の執筆をしてゐると、當然のことながら分からないことが多く出て來る。このことなら多分此の人が詳しいだらうと思ひ當る人がある場合には電話をして聞くことも多い。OB會の名簿を持つてゐるから電話できるのである。奥さんがまづ出るが、大抵家に居てすぐに話が聞ける。昔のことを知つてゐるのは八十過ぎの人たちになるが、結構記憶も受け答へもしつかりしてゐる人もあれば、耳が遠いだけでなくすつかり昔のことを忘れてしまつた人もゐる。面白いのは對應の仕方で、總じて役員經驗者などは言葉を撰びながら丁寧に答へて呉れるが、営業部長當りで終はつた人は横柄といふか、そんな昔のこと知るかよといつた風な對應をされることが多い。しかし、少し突込めば會社の恥部暗部のやうなことまで意外にもすらすらと話して呉れ、それでもこんなことは社史に書くもんじゃないがと釘を刺す。面白い話が聞けるので此方はひたすら低姿勢で聞き役に徹する。
一方で、重要なことを詳しく聞きたい場合には會社に來て貰ふこともある。先日も研究開発担當の役員を務めた方に話を聞く機會があつた。大事な話題なのでボイスレコーダーで談話を録音して後から聞き直した。聞きたい内容を説明する自分の聲も聞くことになるのだが、此れがまた毎囘のことながら、實に酷い聲である。自分が普段話している時に自分で聞いてゐるのと録音の聲が違つて聞こえるのは誰でも經驗があるだらうが、それにしても自分の聲の奇妙さに我ながらがつかりするのである。知人は皆、自分がこんな聲で喋るのを聞いて、それが當り前だと思つて自分と接してゐるのかと思ふと、何だか居たたまれぬ氣持ちになる。自分が生活の中でこんな聲の人間に出會つたら、奇怪で耳障りな其の聲に苛立つか、少なくとも輕くて信用できない人間と看做すだらうと思ふからである。他人が此の聲をもとに自分を判斷してゐるかと思ふと、絶望的な氣分になる。自分の聲に自信がないから、なるべく喋らないやうにしてゐるが、喋らないと余計に聲が出にくくなって變な聲になるやうな氣がする。聲の美しさに敏感で、好きな聲をはつきりと自覚してゐるだけに、自分の實際の聲に氣づいてしまふと、まつたく嫌になるのである。