フレディ2

十二月五日(水)陰時々晴
クィーンのアルバムをその後少しずつ聞いている。フレディのことを思うと涙がたまる。わたしが、その生涯を思っただけで泣けてくるのは、今まで仏さま(ゴーダマ・シッダルダ)だけだったのだが、今回からフレディが加わった。キリストには全く抱かない感情だが、ふたりともインド系であることもわたしにとっては興味深い。とは言え、十代のころわたしはクィーンの良きファンではなかった。ツェッペリンは大好きでそのことを公言していたが、クィーンは気になるしいいなと思いながら素直に好きと言えなかったようなところがある。ビートルズはリアルタイムでは知らず、中学生でロックに目覚めたころ、何と言ってもレッド・ツェッペリンとクィーンが圧倒的な人気がある中、今考えると馬鹿げているのだが、ツェッペリン好きとクィーン好きは両立しないような気分でいて、わたしはツェッペリン派だったのである。中学生というのはとにかく背伸びするのが本質のような存在なので、ロック・ミュージシャンのカッコ良さにしびれ、泣きのギターにほとんど亡我状態となっていたものだが、80年代に大学生になると、中学生時分の稚気を恥じる気分もあって、ロックから距離を置くようになったのも事実である。十代のころには、クィーンやツェッペリンのような音楽が、特別なものではなく当たり前にいつもあるもののように錯覚していたということもある。今にして、あんな素晴らしい音楽とボーカルに出会えたことの奇跡のようなありがたさを痛感してはいるが、当時はその有難みが分からなかった。最近になって、自分は人の「声」がものすごく好きだということに気づいてみると、その中でもとりわけフレディの歌う声への自分の好みは、ちょっと他の追随を許さぬものがある。SIAの声も、三國連太郎原田芳雄、ブライアン・フェリーの声も大好きなのだが、フレディの場合その曲とあいまって、特別な「声」なのである。わたしは声の好き嫌いがけっこう激しくて、テレビのナレーションや俳優、歌手などでも嫌いな声は心からの嫌悪感を抱いてしまう方である。嫌いな声、許せる声、好きでも嫌いでもない声、好きな声、とても好きな声という分け方をよくする。女性の場合、声だけで好きになるということは実は少なく、容姿や性格に加え、声も良ければ最高と思うのに対し、男性はむしろ声だけで好感をもったり、逆に声だけで嫌な奴だと認定したりすることが多いように思う。自分の好みは、柔らかで多少湿り気があり、それでハスキーならなお良いが、低めの声で、香りで言えばカシュメランか、ベチバーのような、あるいはアンバー系の声である。嫌いなのはキンキンしたアルデヒドのような声、シトラスのような黄色い声である。今こうして書きながら気づいたのだが、声質を香調で表現するのはけっこう面白そうである。今後、ちょっとまとめてみようと思う。