月見座頭

薪能二日目は雨のために中止となつた。
午前中にネツトで早々に其れを知つたわたしは、手持ち無沙汰に尺八を吹いて午前中を過したが、止まぬ雨に円覚寺への参禅も取り止め、午後になつてふと思ひ出して永井龍男の『秋』を書棚から取り出して読み直してみた。今日の薪能で掛かる筈だつた「月見座頭」のことが書いてあり、抑々今回の薪能に行つて見る気になつたのは、この小説で知つた「月見座頭」が演目に組まれてゐたことが大きい。
 永井龍男は鎌倉の鶴岡八幡宮の近くに住んでゐたやうで、この小説にも材木座の高台にある娘の嫁ぎ先のことや、昨日行つた鎌倉宮の脇を通つて瑞泉寺に行く話が出てくる。作者はずつと見たいと思つてゐた「月見座頭」を東京に見に行き、蕎麦屋の藪で友人と此の狂言について言葉を交し、其の後の十三夜の晩に瑞泉寺に月見に行くといふのが小説の中味である。
「下京に住む眼の見えぬ者が明月と聞いて花野へ出かけ、上京に住む眼あきの者のなぶりものになる」のが此の狂言の筋だと言ふ。盲の座頭が月見といふ諧謔味と、賢しらな盲人を揶揄(から)かつて面白がるといふ趣向だから、今の世にどんな狂言に仕立てるのか、月夜の野原に方角の分からないやうぐるぐる廻しにされて取り残された座頭がしよんぼりと佇む姿が、其れを見る者の脳裏にくつきりと明月を輝かせるやうな演出となるものなのかどうか、興味があつた。
昨日は新月で、今日は晴れても月は殆ど見えなかつただらう。最初に公演日を見て其れを知つた時にはずいぶんと気の回らない日程の設定だと思つたが、座頭の月見といふ、見てゐる狂言芝居の景色と座頭の頭の中にある秋の空を二重映しにせざるを得ない趣向の中では、考へて見ると実際の月など見えない方がすつきりするのかも知れない。月のない晩を敢て選んで、其れが却つて狂言に余情を残したとしたら主催者の手柄であつたかも知れないが、残念ながら公演が流れてしまつた。雨雲のせいで、月も月見座頭もまた暫くの間わたしが見られぬものになつたのである。

秋雨に座頭の月見やみにけり 乞子
新月や盲(めしい)に引かれ秋の空 菫山