女優たち

十月十日 日 雨後晴

友人の個人紙に触発された格好で朝から映画を観に行く。久しぶりの飯田橋ギンレイ・ホールである。上映されたのは『パーマネント野ばら』と『春との旅』の二本。

『パーマネント野ばら』は菅野美穂主演。四国の鄙びた漁港を舞台に、菅野演ずるなおこは結婚して娘も出来たものの離婚して今は母夏木マリの美容院で暮す。なおこの子ども時代からの友だちに池脇千鶴小池栄子。港町の老若の女たちのあけすけな性と恋愛生活の中で、次第になおこが今も死んだ高校教師との恋愛の記憶に捉はれてゐたことがわかつてくる。なおこの寂しさとほんの少しずつ壊れて行く感じが切なく、菅野美穂ならではの世界。小池栄子もわりに良い味を出してをり、池脇はいつもながらいかにも居さうな女の「らしさ」を演じて過不足なし。
それにしても菅野美穂は不幸な女優だと思ふ。不幸が似合うといふ意味ではない。一番魅力的な時期に代表作となるやうな映画に出会へなかつた不幸、不運である。美しさは言ふまでもないが、菅野美穂が一番魅力的だつたのはやはり十七から十八歳位ではなかつたかと思ふ。『エコエコアザラク』に出た頃である。あの時の、小悪魔的であると同時に狂気を感じさせる高笑ひをもつと上手に生かして、映画の歴史に残るやうな作品に出てゐたとしたら、今はもつと大きな女優になつてゐたと思ふのだ。『落下する夕方』で其の片鱗は見せたにしても、少し歳を取りすぎてゐた(はたちを越してゐた)し、何より映画そのものが駄作であつたからだうしやうもない。本当なら、七十年代の『赤ちょうちん』の秋吉久美子に匹敵する、九十年代を代表する狂気の影のある美女を演じられた筈なのである。返す返すも残念である。ちなみに菅野の属する研音といふプロダクシヨン会社は、他にも天海祐希伊藤美咲片瀬那奈加藤ローサ仙道敦子原沙知絵といつたわたし好みの女優を抱へてゐる。

そして『春との旅』である。仲代達也演ずる祖父が孫娘の春と一緒に、自分を居候させて貰おうと兄弟のところを巡る旅を続け、結局すべて断られた末、孫娘が、母親と離婚した父親に会ひに行くといふ映画。兄弟がとにかく凄い。兄が大滝秀治、姉が淡島千景、服役中の弟の内縁の妻が田中裕子で、もう一人の弟が柄本明である。大滝、淡島の語り口を聞くだけでも価値がある。実はわたしは淡島千景の大ファンなのである。『夫婦善哉』を観た時、こんな綺麗な人がゐるのかと思つた。かういふ代表作のある女優は、歳をとつても各々の年齢で輝くのではないかと思ふ。菅野美穂を観た後だけに余計である。小津作品に登場した際も魅力的で、彼女のやうなちよつとすつ呆けたやうな、蓮つ葉で勝気でしかも可愛げのある女性を演じられる若い女優は今では全くゐなくなつてしまつたやうに思ふ。御齢八十六歳だが、それほど高級さうではない温泉旅館の女将を実に良い塩梅に演じてゐる。歳とつてあんな姉にぴしつと叱られたらどんなに幸せだらうかと思ふ。
それにしても、春を演じた徳永えりといふ女優、最初は年齢不詳で、大柄な小学生か中学生かと思ふやうな幼児体形で、しかももさもさした演技で場違ひな感じがあつたのに、映画が進んで名優たちの演技に感化されて行つたかのやうに段々魅力的な「十九歳」になつてゆく様子は中々見応へがあつた。抑々が給食を作る仕事をしてゐたのに勤めてゐた学校が廃校になつて失業し、単身での上京を考へてそれを告げると、逆上でもしたかのやうに祖父が音信も絶えた兄弟のところを訪ねると言ひ出して聞かずに已む無く出た旅なのである。其の中で、次第に自殺した母、それより前に出て行つた父、其のふたりの間にあつた出来事や残された祖父との暮らしなどが明らかになつて来る。祖父とずつと一緒に暮らす覚悟を決めながら、一方でずつと会つてゐなかつた父親に会ひたくなつて旅の最後に訪ねると、父親は死んだ母親に似た女性と再婚してゐたことを初めて知らされ動揺する…。その時までに得体の知れない孫娘から、余りと言へば余りに悲しい過去を背負つた健気な少女へと変つてゐる。顔が本当に美しくなつてゐるのである。父親役の香川照之との対話の場面では存在感で負けてゐなかつた。
映画の最初のうち仲代達也はオーバーアクションで違和感があり、其れに合せた徳永も変な演技をするなと思つてゐたが、仲代の科白があの良い声での語り口だから、いつの間にか許せるものになるのである。ただ、にしん漁に賭けて貧乏だつたり、酒を二十年呑んでゐなかつたり、珈琲を今まで一度も飲んだことがないなどといふ設定は如何なものかとは思つた。

映画館を出て神楽坂を歩まんと思へど晴れて急に暑くなり、朝の寒さに騙されて冬並みの服装で出たわたしは流石に無理と思ひ、地下鉄で高田馬場に出て、ビツグボツクス一階の古本市を漁書。本日購ひし本は下記の三点のみ。

  • 『鶉衣』横井也有岩波文庫) 300円 前々から欲しかつた俳文集。受験古文で一度は目にした筈。
  • 明治文化史5 宗教』岸本英夫編(原書房) 1200円 このシリーズの「風俗」篇は柳田國男編で有名。そちらは講談社学術文庫で所有。廃仏毀釈や明治の佛教研究には基礎的でかつ便利な一冊。殆ど新本の美本。全部揃へたくなる。
  • 『お葉というモデルがいた』金森敦子(晶文社) 300円 安かつたので思はず。