脳の得手不得手

昔、香りを嗅ぎながら脳波の測定をしてもらつたことがある。東邦医大の鳥居先生の研究の被験者として、香水を嗅いで官能的な想像を働かせてゐる際の脳波のパターンを見るといふもので、後からどこかに発表されてゐたのを見た覚へがある。その時の予備実験で面白かつたのは、単純な足算のやうな数学的処理をする際に、わたしの場合普通の人のやうに抽象的に考へるのではなくて、図形を処理する時に使ふ脳が働いてゐると言はれたことである。それで思ひ出したのは、小学生低学年でやる「鶴亀算」で、だういふ訳かわたしは通常のやり方とは全く違ふ計算の方法を編み出したらしく先生に褒められたことだ。今ではどんなものだつたかすつかり忘れてしまつたが、親が自慢したのを聞いて当時一橋大学に通つてゐた従兄弟が興味を持ち説明したらひどく感心してくれたのを覚へてゐる。

これは錯覚や思ひ込みかも知れないのだが、わたしはものを考へてゐる時脳のどのあたりが働いてゐるかを感じ取れる気がしてゐる。哲学的なことや極めて抽象的なことを考へる時には左の後ろが痛くなるが、神や仏といつた宗教的な話になると頭頂からやや右より、文学だと頭頂からやや前方の左右両方が働いてゐる感覚がある。それと頭の中に図表やグラフを思ひ描くことはできないが、抽象的な概念やある種の音を伴ふ言葉には、テクスチヤーや質感、肌触りのやうなものを感じて、それは何やら脳の中心部の真空で起つてゐるやうな感覚がある。

読書で使ふ脳に偏りがあり過ぎると暇な脳が信号を送るのか、突然全く別の分野の本を読みたくなることがある。特に、小説や詩歌が続くと、物凄く抽象的で難解な哲学書を読みたくなるのである。もつとも、いざ分厚い名著を読み始めても、暫くすると脳が痛くなつて「まうたくさん」となつてまた元の読書傾向に戻るのではあるが。どうやらわたしの頭脳は抽象的な思考には向いてゐないやうだ。これを言ひ換へると「頭が悪い」といふことであらう。このごろ、哲学ではなく宗教哲学宗教哲学よりも宗教思想史、宗教思想史よりも宗教民俗学や宗教人類学といふ風に、より具体的なものの方にわたしの興味のあることを実感してゐるが、これは興味関心の問題といふよりも、わたしの脳の癖や得手不得手に因るものなのかも知れない。

帰宅後久しぶりに花を生ける。