興味なし―或いは精神的鎖国について

歳をとつたからなのか、もともと偏狭な性格なのか、此の頃は興味を持つことの幅がだいぶ狭くなつてゐるやうだ。好奇心は強いのだが、向ける先が限られてゐる。世間で評判とか人気といふやうなものには大抵興味が湧かないか、むしろ嫌ふことが多い。わたしの場合興味・関心がないとなると、まつたくきれいさつぱりと関心を持たないから、冷淡と取られることも多い。自分の関心事についてはさも面白さうに表情も豊に生き生きと語るくせに、興味のない話題になるとあからさまにつまらなさうな顔をしてしまふらしい。興味のないことに面白がるふりができないのである。世上よく耳にする話題の中でとりわけわたしが興味を持たないのはツイツターやスマートフオンであり、おしなべてIТ関連には関心が薄く、コンピユーター関係も必要最小限のことしか興味はない。或いは女子アナだとか歌舞伎、AKBにも一向に関心がない。極論を言つてしまへば平成以降の日本に興味がないのかも知れない。もはや海外旅行に行く気にもならないし、そもそも西洋や北米に対してまつたく興味がなくなつてしまつた。西洋の文学や思想も、美術や音楽さへ、日本のそれらを考へる上での参考に過ぎない。実際の西洋諸国の景色や風土、経済や歴史、言語や人々にはまるで興味がない。精神の鎖国に等しく、視野に入るのは唐や天竺までである。ちよつと困つた状態だとは思ふが、まあそのうち気も変るであらう。わたしの場合偏狭であることよりも気まぐれであることの方がより強い生まれつきの性分のやうだからである。